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いくつの嘘と、カフェオレと。
「夜明けのコーヒーを二人で一緒に飲まないか、とかね」 「なんだそれ」 「常套句らしいんだがな。私も口に上らせたのは初めてだ」 喉が渇いて、目が覚めた。 真夜中のベッドルーム、大佐はシーツを一枚巻きつけ部屋を後にしようとした俺の腕を引きとめ、代わりに私が、とそう言って、俺の額に接吻けを落とすと静かに部屋を出て行った。 パタリと扉が閉じてしまえば、音のない部屋、更なる静寂が舞い降りてくる。 待てど暮らせど戻ってこない、大佐に業を煮やして不安を覚えて、僅かな衣擦れ解けたシーツに再び身体を絡ませれば、その時ようやく扉が開いた。 遅せぇよ、と文句の一つも言ってやろうとしたけれど、未だ暗い部屋の中に浮かんだ大佐のシルエットをみつけた瞬間、何故か妙に安心してしまった俺は、結局そのまま口を噤んだ。 「水でよかったのに」 「いい豆が手に入ったものだからね。時間をかけてすまなかった」 「…そういうつもりで言ったわけじゃ、ねえけどさ」 「ああ、私もそういうつもりで言ったわけではないよ。それに豆とはコーヒー豆のことであって、断じて君のことを指して言ったわけでもない」 「アンタなあ…!」 手元にあった枕を投げつけた。 いつもなら顔面で枕を受け止めることになったであろう大佐は、思わぬ身軽さでそれを避け、危ないなあ、零れるだろう?などと言いながら、のんびりと笑っている。 大佐が手にしたカップの中から、飴色の液体が芳醇な香りを漂わせている。 いつもと同じ、静かに流れる夜の気配。 けれど、どこかいつもと違う夜だった。 「ミルク、入れるだろう?」 「ん…」 実のところ、コーヒーはあまり好きじゃない。 ミルクに至っては、全くもって好きじゃない。 けれど、何故か苦手同士を組み合わせたカフェオレは、好きだった。 好きだったというよりも、好きだと気づかされたというのが正しいのかもしれない。 「飲ませてあげようか?」 「は?」 「あの時のように、もう一度」 「…バカか」 顔に出てしまっていたのだろうか。それとも、大佐も思い出していたのだろうか。 ミルクとコーヒーを混ぜ合わせた、俺にとっての未知の味を覚えさせたのは大佐だ。 あの日、目の前に差し出されたマグカップの中を覗いて、嫌いと嫌いを足し合わせたら大嫌いになるんだぜ、と言った俺に、マイナスとマイナスを足し合わせたらプラスにだってなるだろう、と大佐はさらりと笑ってそう言って、マグカップでたぷんと波打つカフェオレを一口含むと、徐に唇を寄せてきた。 口移し与えられたカフェオレの味なんて、あの時は正直どうでもよくなってはいたのだけれど、あれが初カフェオレかつ、初キスだったりするのだから、とんだサプライズもあったもんだと、今になってそう思う。 「頬を真っ赤に染め上げた君は、本当に可愛かった…」 「…なにを思い出してんだよ」 「零れ落ちそうに目を見開いて、いやもう本当に…」 「いいから、もう黙れ」 二人で一緒の夜を過ごすようになってから随分と経つが、こんな風にのんびりと会話を交わすようになったのは、ごく最近のことだったりする。 以前は大佐の家に着くなりベッドルームに一直線、獣みたいに闇雲に、気を失うほどに只管に、交わりあって朝がくるまで。 一気に火照る身体の熱を持て余し、徐々に冷める虚しい心を持て余し、やがて訪れる乾いた朝に、一人で部屋を後にするまで。 その手の遊びが、ハデな男だと知っていた。 子供が飽きた玩具を捨てるように、とっかえひっかえ。 浮名を流し続ける男が、次から次へと新しい玩具に感心を寄せていく様を、見ていたから、知っていた。 だから、愛されるはずはないとも知っていた。 女に飽きただけだろう男の遊びに付き合ってやっているだけ、だから愛してなんかやらないと。 愛してなんていないんだと、頑なまでに自分の心に嘘をついて。 「鋼の」 「…なに」 「君、私に感謝したまえよ?」 「は?なにを」 「私のおかげで、カフェオレが好きになれただろう?」 冗談めかしてそう言った男の、愛など持ち合わせていないはずだと、固く信じて疑わなかったこの男の、感極まるように縋るその視線の意味に気がついたのは、一体いつのことだったろう。 「…へぇへぇ、感謝してますよ」 「そうだろう、そうだろう」 「んだよ、くだらねえことで勝ち誇りやがって」 「――…るのに」 「え…?」 「他にも沢山のことを、君にね。君が知らないこと、もっと色んな…」 「…大佐?」 「いや…。いや、いいんだ…」 君が、もっと。 そばに、ずっと。 * 薄汚れた白い壁、茶けたカーテン、途切れがちなラジオの音が、闇に紛れて静かに響いて、浴室から洩れ聞こえるシャワーの音を掻き消した。 サイドテーブルに置かれた色気のない酒瓶が、僅かに灯った明かりに照らされ、鈍く光を反射している。 グラスに注ぐのも面倒で、そのまま直に口をつければ、温んだ酒は喉の渇きを増長させるだけに終わった。 「…水。おーい、水くれ、水。…えーと…」 ベッドに手足を投げ出したまま、身動き一つとるのが面倒で、無意識に呼びかけ我に返った。 呼びかけたところで聞こえるはずもないだろう、鼻歌まじりにシャワーを浴びている男の名前さえ知らない。 シーツに吐き出されたままの無数の染み跡、ぱらりと散らばる乾いた紙幣。 怠さを引き摺りながらも強引に身を起こせば、奥から男の放った名残が流れ伝う気配を感じて、吐き気がした。 適当に身づくろいをして、飛び出すように後にした部屋の外、夜明けには程遠く湿った空気、続く夜の気配にほっと一つ息を吐く。 あてどなく歩いて、通りの角を二つ曲がった場所に、ひっそりと温みをもった明かりを灯すコーヒーショップをみつけた。 扉を開けば、カランと小さくベルが鳴る音がする。 いらっしゃい、と小さく呟くように言った店主にコーヒーを注文し、客の見当たらない店内、ぽつんと置かれたソファに深く身を沈めて目を閉じた。 この街は、どこかアメストリスに似ていた。だからなのかもしれない。 アルが眠りについた後、一人で街に出た。 何を探していたわけでもない、ただ一人で歩いていた夜の街角。 男に声を掛けられた。 夜明けのコーヒーを飲まないか。だなんて、今時そんな陳腐な台詞ひとつで誘いに乗った。 そんな風に見えるのか、と自嘲しながら、馴染みはじめた未知の世界、新しい街、知らない街角。 けれどあの街に、セントラルにどこかが似ていた。 『夜明けのコーヒーを二人で一緒に飲まないか、とかね』 あの男を、思い出した。 『君に教えてあげれられることが、沢山あるのに』 あの日、後にも先にも一度きり、あの男が言いかけた言葉の続きと、その意味を。 わかっていながら知らない振りをしたのは、嘘をつけない自分の事実と、それでも嘘をついてしまいそうな自分の心を知っていたからだ。 感極まったような目をした男の前で、自分も感極まって泣いてしまいそうで、嘘をつくことが恐ろしかった。 コトリと音がして、顔をあげれば目の前に、ユラユラと湯気を揺らしたカフェオレボールが置かれていた。 「あ…」 「特に冷え込む今日みたいな夜には、お客さん」 コーヒーよりも、カフェオレを。 虚しいだけの行きずりのセックスの名残が、身体のどこかしこに染み付いている。 スプーンで掻き回したカフェオレの渦に、かつて愛した男の面影が滲んで映る。 ずっとずっと、側にいる。 あの時は言えなかった『嘘』の言葉。 けれど確かにあの時俺は嘘をついた。 その『嘘』が本当は自分の望みなのだと、口に出してしまえば思い知らさせる、だから口には出せずに自分自身に嘘をついて。 かつて、誰より愛した男がいた。 その男に出会って、俺はカフェオレの味と、人を愛し愛される、喜びと切なさを知った。 そしてそれから、いくつかの嘘を覚え、今も自分に嘘をついて、今日を生きている。 かつて愛した男のことを、今も誰より愛していると、跡を隠さぬ汚れた身体と、仄かに香るカフェオレと、いくつもの矛盾を抱えて嘘を重ねて、今日を生きている。 アンタのいないこの街で、一人こうして生きている。 |