名もなき花の物語



強い風が吹いたある日のこと、遠い村から一つの種が風に乗り、大きな街へと運ばれてきました。
種はぽつりと運ばれて、都会のほんの僅か残された土壌に根を張ると、ど根性でコンクリートで固められた地面の上に芽を出して、小さな小さな蕾を一つつけました。
花の名前はエドワード。
広い都会の片隅で、ひっそり咲いた白く可憐な名もなき花の名前です。


雨に打たれて風を受け、足早に道行く人を眺めながら、エドは毎日花を咲かせていました。
野良猫に踏まれたり、散歩途中の犬に食まれそうになりながらも、エドは来る日も来る日も小さな花を咲かせ続けました。
そんなある晩のこと。
エドは、自分の前で不意に足を止めた男に話しかけられたのです。
「…花だな」
うん、花だよ。とエドは思いました。
「こんなところで、お前…。よく咲いたな」
うん、頑張った。とエドは答えました。
「なんという花なのだか、花の名前には明るくないんだが…」
エドだよ、俺の名前はエドワード。
エドは意気込みながら、そう答えました。
「可憐な花だ。頑張ったな、お前」
お前じゃなくて、エド。アンタは?アンタの名前はなんていうの?
必死に声をあげるエドに気がつく様子もなく、男は優しい仕草でエドの花弁をそっと指で撫でると、そのままエドの前から立ち去ってしまいました。
花の声はきっと人には聞こえないのでしょう。
エドはそのことがちょっぴり悲しいと思いながらも、男の後姿を目で追いながら、ほわりと幸せな気持ちになりました。
誰の目に留まることもなく、誰が足を止めるわけでもない。
それが当たり前だと思っていました。
誰かが自分の存在に気がついてくれるということが、こんなにも嬉しいことだったなんて、エドは今までずっと知らずにいたのです。
そうだ、俺は。
もっと綺麗な花を咲かそう。またあの人に会えた時、きっと愛してもらえるように。
嬉しくて嬉しくて、エドはニコニコと花弁を揺らしました。
揺れる花弁は月の明かりに照らされて、キラキラキラキラ輝きました。

それからの毎日は、エドにとってとても幸せな毎日でした。
夜になると決まってエドの元に訪れる男を見るのが楽しみで、エドは夜になるのを首を長くして待っていました。
男はいつも柔らかい笑顔でエドを見つめてくれるのです。
そして、一言二言エドに声をかけては、少し冷たい指先でエドの花弁を優しく撫でてくれました。
立ち去る男の後姿を今日もエドは見送りながら、エドはそっと祈ります。
どうか明日も、綺麗な花を咲かせることができますように。
どうか、明日も明後日も。ずっとずっと花を咲かせることができますように。
エドはそう呟いて、静かに目を閉じ項垂れました。
日を追うごとに、目を開けていられる時間が短くなっていることに気がつきながら。

そんな毎日が続いたある晩のこと、男はいつものようにエドの元にやってくると、ほんの僅かに顔を曇らせ、悲しそうな声で言いました。
「最近はずっと蕾のままだな…」
そうなのです。
男がやってくる夜までにはなんとか花を咲かそうと、エドは朝から頑張っているのですが、そんな努力を嘲り笑うかのように、一向に花が開こうとしないのです。
どんなにエドが花を咲かせたいと願っても、花弁が少しも開かない。
エドにはわかってしまいました。
お別れのときが来たのです。
エドが項垂れたまま、男にさよならを告げようと口を開きかけた時、パシャ、とエドの足元に透明な水が染み渡っていきました。
「足しになるかはわからんが、ないよりましかと思ってな」
男はそう言いながら、水の入った小瓶を傾け、パシャリパシャリとエドの足元に小さな水溜りを作っていきました。
足元から染み渡る水が、エドの身体の隅々までを潤していきます。
雨以外の水を知らないエドにとって、その水はとても甘く感じられました。
ありがとう。嬉しい。ありがとう。
エドは何度も呟きました。
声が届かないのは知っています。それでも言わずにいられなかった。
「花には水と愛情だと言われてね。だからせめて、名前をと思ったんだが…」
男はエドに水を遣りながら、小さな声で囁きました。
「なあ、お前。なんていう名前の花なんだ?」
呼べば、花を咲かせられるか?

――エドだよ。
エドは喜びに震えながら、そう答えました。
たとえ、声が伝わらなくても。貴方に名前を呼ばれなくても。
優しくしてくれて、ありがとう。
ありがとう。ありがとう。
俺は貴方が大好きでした。
エドはすべての力を使って、花を咲かせようとしました。
実を結べなくても構わない。このまま枯れてしまって構わない。
だからせめて、もう一度。
貴方のために、もう一度。

ゆるゆると蕾がふくらみ、ゆっくりと小さな花弁が開いていきます。
天にエドの願いが届いたものか、エドは再び花を咲かせることができたのです。
男は一瞬驚いた顔をして、それから嬉しげに微笑みました。
そして、エドの花弁に触れようとそっと指を差し出した瞬間。
さわりと吹いた風が、エドの花弁をはらりと散らしていきました。
すっかり雲に覆われた月が明かりを照らさぬ闇間にも、風に浚われはらりはらりと、エドの花弁が散っていきます。
そして再び、雲間から月が顔を出した時、エドはいつもより近い視線で男を見つめる自分に気がつきました。
慣れ親しんだ地面は低く、見上げた空にいつもよりも近く月を感じながら、驚きのあまり声も出せない男に向かい、微笑みながら問いかけました。

「俺の名前はエド。エドワードだよ。アンタの名前は?」
「――…ロイだ」

ああ、声が届いた。
エドは花が綻ぶように、綺麗にふわりと微笑みました。
もうロイが来るのを待ち続けなくてもいいのです。
もうロイが立ち去るのを見送らなくてもいいのです。

「ロイ」
エドは幸せそうに、たった一つの大事な宝物であるかのように、その名前を唇に乗せました。
「エド。…エドワード」
ロイは噛み締めるようにエドの名前を呼ぶと、柔らかな笑顔を浮かべてエドの手を引き歩き出しました。
これからは会いに行くことも、待つこともない。
手を繋いでどこまでも一緒に歩いていける。

嬉しくて嬉しくて、エドはニコニコと金の髪を揺らしながら歩きました。
ロイを見つめる金の瞳は、月の明かりに照らされて、キラキラキラキラ輝きました。


広い都会の小さな路地の片隅で、月だけが知っている、名もない花のおはなしです。









モドル