梯子がない。
ずっと男として育ってきたので、普通の少女であればありえない、男の前で服を脱ぐ行為とか、エドにとってそういう意味での恥じらいのラインは低い。
それでも自分が女であるということは、散々人から聞かされてきたのだし、何より自覚があるのだし、最近では滅多矢鱈に人前で、それこそアルの前でさえ服を脱がないように気をつけている。
そんなエドにも、唯一の例外はあった。
エドが唯一例外と定めた『ロイ・マスタング大佐』は、ごく最近までエドで女であることを知らずにいた。
ひょんなことからそれを知ってしまった今となっては、突然少女になってしまったエドの扱いに困惑しているらしく、今までだって良好とはいかないまでも、それなりに良い関係を保てていると思っていたエドは、微妙な距離感を置かれたようで、ふとした拍子に、頭を軽く撫でられたり、指が触れ合ったりしていた、そういう些細なふれあいすらも、意識的に避けられているような、それがわかって、エドは寂しい。
構って欲しくてたまらないというわけではないが、もともと愛されたがりな子供だったエドとしては、繋いだ手を解かれて、そのまま置き去りにされたようで、それが何より悲しかった。
調べ物があるからと、一人で軍に立ち寄って、大佐の執務室の奥の扉からのみいける、秘密の書庫へ入れてくれるように大佐に頼んだ。
秘密の書庫と言ったところで、特別重要機密が隠されているわけでもなく、大佐が個人的に集めた錬金術関係の本が置かれてあるだけで、本来ならば先ほどまで行っていた図書館で全て用は足りてしまったはずなのだけど。
小さく窮屈なその部屋は、不思議な力を持っているのか、訪れるたびエドの心を落ち着かせた。
鉄でできた色気のない本棚が天井に届くほどに高く備え付けられ、エドが読みたいと思った本は、右から数えて二列目の上から三段目中央に置かれている。
小柄なエドには到底届く高さではなく、いつものようにエドは側に置かれているはずの梯子を探した。
探したが、どこにも見つからない。
「大佐!大佐!」
「…なんだね、騒々しい」
大声で大佐を呼べば、扉の向こう側から返事が聞こえた。
「大佐、梯子がない」
「…梯子?」
扉が開かれて、大佐がゆっくりとエドに向かって歩いてくる。
「梯子がないから、あの本がとれない」
「どれ?」
エドが指差す方を見ながら、大佐はああ、と頷くと事も無げにその本に手を伸ばした。
「…違くて!」
「ん?」
どれ?こっちか?
大佐の腕が再び本へと伸ばされるのを遮って、エドは袖口を引っ張った。
「そうじゃなくて。…本は俺がとるから、大佐は俺を抱き上げて」
「――は?」
「俺が本を持つから。大佐は俺を持ってよ」
「…何故?」
エドにはどんなに難しくても、大佐にとってその本は、手を伸ばせば十分に届く位置にあるのだ。
どうしてそんな面倒なことをしなければならないのかと、疑問に思うのも当然だろう。
心底不思議そうな顔で返されて、エドは返事に窮した。
我ながら、上手い方法だと思ったのだ。
本に届かないから、大佐に抱き上げてもらって本をとる。自然な流れだと思っていた。
――ほんの少し触れてくれたら、それでいいのに。
思っても口には出さない。口に出せるはずもない。
「――じゃあ、いい。もういい。自分で登るからいい!」
「え?…あ、こら。やめなさい、危ないだろう!」
僅かに焦った大佐の声を無視して、エドは凄まじい勢いで本棚をよじ登っていく。
そして、目指す本に手を伸ばしたその瞬間。
「う、わっ…!?」
「…鋼の!」
元々固定の甘かった本棚がグラグラ揺れて、エドは収めてあった本諸共床へと叩きつけられた。…はずだった。
「痛…った…くない…?あれ?」
「――平気か?怪我はないか?」
「へ、大佐…?」
近くから大佐の声が聞こえて、慌てて身を起こそうとしたものの、まるで金縛りにあったかのように身体の自由が利かない。
そして、身体を拘束しているものが大佐の腕だと気がついた。
雪崩を起こした本の山から、エドの身を守るように大佐がエドを抱きしめながら床に倒れている。
「君はまったく…。あまり無茶をしないでくれ」
「あ、うん…」
覆いかぶさる本の山を避けながら、大佐が身を起こそうとするのを、エドは慌てて引き寄せた。
「…どうした?どこか痛むのか?」
「ううん。あのさ…」
「ん?」
「あ、ありがと…」
間近に迫った大佐の顔にどぎまぎしつつも、エドは必死な顔でそう言った。
「ああ…。どういたしまして」
大佐はくすりと笑って、エドの頭をくしゃりと撫でた。
――あ。頭、撫でられた。
大佐は身を起こすとうんざり辺りを見回して、のろのろと本を片付けている。
エドは床をコロコロ転がりながら、大佐が触れた頭を自分の掌で撫で続けている。