Voice 〜Calling me
何故、と問われれば、恐らく言葉にして返すことなどできないだろう。
気がつけばこんなにも、貴方のことばかりな自分がいる。
***
ざわり、と心が波を打った。
初めて彼を見たときに。
リゼンブールで抜け殻のように佇む俺に、彼が叩きつけた言葉の数々。
ざわりざわりと、それはいつしか津波となって、波が去ったあとに残されたのは、
蒼く揺れる小さな焔。
時が満ち、いざセントラルへ向かうその日まで、心の奥に灯った焔が消えることは決してなかった。
焔は希望。そして、羨望。
男に対して感じた想い、それは怒り。あるいは…。
胸の奥に隠した焔は青く静かな火種を残し、再び彼に見えてもなお、深く揺らめき燻りつづけた。
*
東方司令部、ロイ・マスタング大佐の執務室。
幾度となく足を運び、すでに見知った面々と挨拶を交わし、いつものように報告書を携えて。
「こんちはー、ってあれ?」
「…ようやくきたか」
「あー…っと、他の皆は?」
「皆、出払っていてね。ここには私一人だよ」
「――あ、そう。…ようやくきたって、何が?」
「君の噂ばかりが耳に入ってくる割に、一向に姿を見せないものだからね。どこでどうしているのかと案じていたんだ」
「案じて」
「そう、案じて」
無言で差し出された右手を見て、ポケットに丸めて突っ込んだままの報告書を、形ばかり整えながら大佐に手渡す。
「どうぞ。案じていらした報告書です。大佐」
「…珍しく厚いと思ったら。なんでこんなに文字が大きいんだ…?」
「いっつも薄い薄いって文句ばっか言うからだろ。厚さを出すのに結構、頑張ったんだぜ?」
「努力するのはいいことだがな。頑張りどころを間違えているよ、君は」
パラパラと気のない様子で報告書を捲っていた男が、諦めたように溜息をひとつ吐き、そのまま静かに席を立つ。
「…大佐?」
「ああ。折角だから、茶の一杯でも君に振舞おうかと思ってな。…たまにはいいだろう?」
「大佐が淹れてくれんの?」
「…仕方ないだろう?ここには君と私の二人だけしかいないんだ」
茶化すように伝えた言葉に、些か憮然とした様子でそう返した男は、それでも手馴れた手つきで茶器を取り出し用意を始めた。
物珍しさも手伝って、そのまましばらく男を眺める。
整った顔立ち。…とまでは言わないが、女達が挙って熱を上げる程には、なかなかどうして魅力的な男であろうと思う。
「…なんだ?私の顔に何かついているか?」
「いや、別に?」
不可解そうに眉を顰めて、ほんの数秒。
なんでもないと、大げさなまでの笑顔で応えれば、肩を竦めて再び茶器に向き直る。
まるで子供のようなその仕草。
そんな男の背中を見つめながら、先ほどとは違う、作り物ではない本物の笑みが込み上げてくるのを感じた。
顔が綻びかけるのを、無理矢理に押し込める。気配に敏感な男にそうと悟られずにそれをこなすのは、あまり容易なことではなかった。
いつものスカしたポーカーフェイスのその裏で、時折見せる豊かな表情。
本来は喜怒哀楽がすぐに面にでるような、根は素直な男なのかも知れない。
「よし。…あとは葉が開くのを待てばいい」
「大佐ってさ…」
「ん?」
「意外とマメだったりする?」
「いや、そうでもないが…。ああ、でも女性に対しては比較的そうかもしれん」
「…あっそ」
「君が女性だったらな。存分に披露してご覧にいれるところだが…」
いや、まったく残念だ。
楽しそうにそう言うと、人の悪そうな顔をして笑った。
*
『今まで内緒にしてたんだけどね。ぶっちゃけ、俺ってば女なんだよねー』とか。
いっそ思いっきり爆弾発言かましたら、一体この男はどんな顔をするのだろう、とか。
白いカップを弄びながら、そんなことばかりを考えていた。
二人きりの室内で、穏やかにゆっくりと、それでも確実に時間は過ぎていく。
「――大佐」
「うん?」
「俺、もう行くね」
「…そうか」
じゃあ、これで。
そう言って、扉を開いた瞬間に、
「鋼の」
男の声が俺を呼び止めた。
「…なに?」
「ああ、いや。…いや。なんでもない。…気をつけてな」
「……うん。行ってくる」
思いのほか穏やかに微笑む男の表情に不意打ちを食らい、高まり始めた胸の鼓動を必死で抑えた。
そんな優しい顔をされては困る。優しい言葉は、もっと困る。
自分の中で、この男の存在が、これ以上大きくなっては困るのだ。
そんな顔をするのは反則だと、言えたらどんなによかったろう。
逃げるようにして飛び出した廊下の先、外は雨が降っていた。
音もなく、静かに降り注ぐ銀糸の雨に、身体中がしっとりと濡らされていく。
雨の中を一人佇みながら、この雨が形を捉えはじめた彼への想いを、心に燻る青い火種を、全て綺麗に洗い流してくれたらいいのにと、そんなことを考えていた。
所詮適わぬ想いなら、初めからなかったことにしてしまえばいい。
今ならまだ間に合うはずだ。
募る彼へのこの想いは、引き返せるくらいの、ささやかな――。
「エドワード!」
不意に背後から追いかけてきた声に、一瞬身体が硬直した。
「何してる。雨の中をいつまでも突っ立っているんじゃない」
「――…大佐」
「この傘を持っていきなさい。いくら君でも雨に濡れれば風邪をひく」
男が大振りの黒い傘を手にしてこちらに向かってくる。
「…ああ。君には少し大きすぎたかな?これでは傘に飲みこまれてしまう」
小さく笑いながら、なにより自分が気にしている身長のことを言われてからかわれているのはわかっているのに。
名前を呼ばれた。
初めてだった。
「エド?」
――あ。また。
どうした?訝しげに続けてそう尋ねられても、返事をする余裕が無かった。
名前を呼ばれるということが、こんなにも特別なことだなんて、今まで思ったこともなかった。
目の前に立つ男の口から発せられた自分の名前が、とても大事なまるで宝物でさえあるかのような、そんな気持ちになるのは何故だろう。
呼ばれた名前が、自分の名前が、じわりと身体を浸透していく。男の声が染みとおる。
「――傘」
「ん?」
「借りてく。…ありがと」
「ああ」
じゃあね。また。
そう言って、振りかえることすらできないままに、雨の中を駆け出した。
きっかけというものがあるとして、それが何かと問われれば、恐らく明確に答えることなどできないけれど。
男が傘を差し出したあの時に、自分を呼んだ男の声に。
自分の名前が特別なのだと、初めて知った、あの時に。
それは深く静かに心の中で何かを残して、燻りつづけた小さな火種に緩く優しく風を送り、形を変えて、蒼く小さな焔を灯した。
それからずっと、心に灯った蒼い焔は決して消えることもなく、今でも静かに燃えつづけている。