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浮雲
ロイは大人の黒猫で、片目に大きな傷のある、行方を知れぬはぐれ猫――。 エドは鳴き収めのしぐれ蝉がカタカタ震える夏の暮れに生まれた。 祭囃子が聞こえる晩に、母猫や他の兄弟から引き離されて、たった一匹里子に出された。 遠く離れたこの村で、優しい飼い主に恵まれて、可愛がられて暮らしているから、不自由なことなどなにもない。 周りに暮らす猫たちも、突如として現れた金の毛並みに金の眼の、仔猫を暖かく迎えてくれた。 だから母や兄弟とどんなに遠く離れても、寂しいことなどなにもない。 *** 小川の水が柔わく温み始めて、春が穏やかに訪れた。 エドは僅かに大きくなった。それでも仔猫であることに、なんら変わりはないのだけれど。 そしていつの頃からか、村のはずれの境内に、どこからきたのか黒猫が一匹棲みついた。 エドがここで暮らし始めるようになってから、よそ猫を見るのは初めてで、それがエドには物珍しくて嬉しくて、そわそわするのを止められない。 隣に住む白猫のピナコばっちゃんは、あれには決して近づくなというのだけれど、好奇心には逆らえず、エドは今日も煮干を咥えて神社の境内へと走っていった。 「今日もいい陽気だな」 「…ロイ!」 古びた神社の屋根に寝そべり、ロイがエドを見下ろしている。 ロイは大人の黒猫で、片目に大きな傷があった。 「俺、煮干持ってきた。食う?」 「ああ、後でもらうよ」 エドはひょいと軒を伝って、ロイの元へと駆け寄った。 「ロイはいつも屋根にいるから、エドにはなかなか見つけられない」 「俺はここが気に入っているんだ。見晴らしがいいからなあ、お前がくるのもすぐに見えるよ」 それに天にも一番近い。 ロイはそう言い、空に向かって手を翳した。 「そんなに好きか?」 「ん?なにが?」 「お前はいつも空を見ている」 「ああ、好きだねえ」 流れる雲は、俺と同じだ。何処からきて、何処へと去る。 形を変えて、色を変え。流れ流れて、消えていく。 「流れてなぞ、行かなければいい」 「なんだ、どうした?」 「ロイはここに居ればいい。ずっとここに居ればいい」 「お前、そうは行かないよ。俺は”はぐれ猫”だから。国を追われたあの日から、ずっとそうして生きてきた」 国を追われたと言いながら、嬉しげに聞こえるのは何故だろう。 流れて暮らす生き方を、自ら望んでいたかのように。 * ――エドよ。エド。 あれは行方を知らぬ”はぐれ猫”。罪を犯して国を追われて、逃れ逃れて、行き着く先は誰も知らない。 ひとところに落ち着くなんざできない猫さ。そして迎えた最後の日、知らない土地でのたれ死ぬ。 「ピナコばっちゃん。それでも、俺は」 昼も夜もいつだって、あれが気になり仕方がないのだ。 もしもロイが犯した罪を償い切れずに追っ手を逃れているのなら、俺がロイを守ってあげる。 きっと必ず守ってあげる。 * 「エド、その首輪」 「うん?このリボン?」 「ああ。お前、飼い猫なのか。道理で毛並みがいいと思った」 ロイはそう言うと、エドのリボンを唇で軽く引っ張った。 「解けるから、やめろって。折角綺麗に結いてもらったのに」 「赤い首輪か。…お前によく似合ってる」 言いながら、ロイは再び口の端でリボンを咥えた。 「ロイ、ロイ?」 「んー?」 「お前もリボンがほしいの?頼んでつけてもらおうか?」 「…くっ、くくく」 「ロイ?」 「いらないよ。俺には首輪は似合わない」 くつくつと笑いながら、ロイはざらりとした舌先でエドの頬を舐めあげた。 ――そうだろうか。黒い毛並みに俺と揃いの赤のリボンは、きっとお前に映えるに違いないのに。 エドはそんなことを考えながら、お返しとばかりにロイの指をぱくりと咥えた。 ** 茜色に染まった空に、一番星が輝いている。 「お前、もう戻らないでいいのか?」 「うん、月が昇る頃には戻るよ」 「そうか」 「…なあ、ロイ」 「ん?」 「俺はお前の仔を産むよ」 「…お前が、俺の?」 「うん」 「…一体何を言い出すものかと思ったら」 ロイはそう言い、エドの耳に噛み付いた。 「痛い、痛いよ。ロイ」 「仔猫が生意気言うからだ」 「仔猫じゃないよ。俺はすぐに大人になるよ」 この春が終わる頃には、俺は大人になるだろう。 そして、お前の仔を産もう。 初めてお前を見た日から、ずっと決めていたんだよ。 そしてお前とその仔らを、大事に大事に守ってあげる。 「…お前が俺を守るのか」 「そうだよ、俺が守ってあげる」 「――そうか」 ロイはそう呟いて、エドの耳に首筋に、そっと優しく頬ずりをした。 ** 時は静かに流れていって、いつしか季節は夏になり、エドはロイの仔を宿した。 そして仔が産まれた晩に、ロイは黙って姿を消した。 「だから、あんなに言ったのに」 神社の境内、姿を隠したロイを待ち十日あまりがたった頃、煮干を咥えたばっちゃんが俺を訪ねてそう言った。 「あれは行方を知らぬ”はぐれ猫”。罪を犯して国を追われて、逃れ逃れて行き着く先は誰も知らない」 ひとところに落ち着くなんざできない猫さ。そして迎えた最後の日、知らない土地でのたれ死ぬ。 「ロイは戻るよ」 「エド」 「必ず戻るよ。俺が守ると約束したもの」 だからロイが知らない土地で、ひとりで逝くことなどありはしない。 国を追われて、逃れ逃れて、行き着く先はここにある。 行方定まらぬ”はぐれ猫” それがお前の性ならば、俺はそれを受け容れよう。 それでもきっといつの日か、ここへ必ず戻っておいで。 どこへ行っても、必ずここに戻っておいで。 俺がここでお前のことを待っているから。 そして戻ったお前を抱いて、大事に大事に守ってあげる。 *** 村のはずれの境内から、遠く祭囃子の音が聞こえる。 生まれて初めて聞くお囃子に、浮かれた仔らが早く早くと先を急かした。 お前によく似た黒の仔猫は、赤いリボンを首につけ我先にと道を走り、俺によく似た金の仔猫は後を必死で追いかける。 黒の仔猫は自分でネズミをとることを覚えたし、金の仔猫は器量良しだと評判だ。 早くここに戻っておいで。お前に話したいことが沢山あるんだ。 茜色に染まった空に、一番星が輝いている。 遠く響く祭囃子の笛の音は、お前の元まで届くだろうか。 |