鬼の棲む宿



男がやってきたのは、梅雨に入ってまもなくの、あじさいの葉に溜まった朝露が、風に揺らされ光って落ちた、ある朝のことだった。
「部屋を一晩、貸してもらえるかな」
人里を遠く離れた山間にある、訪れるものなど滅多にない、忘れ去られたこの里に、それでも稀に訪れる人々は、誰もが死に場所を求めて彷徨い、一縷の希望を携えてこの里にやってくるものばかり。
誰もが沈み澱んだ瞳で、昏い期待を胸に秘め、宿の戸口に現れる。
この男も例に洩れず、死に場所を求めてこの里まで彷徨い歩いてきたのだろうかと、エドは霧雨の降りしきる中、鈍色の雨具を着込んで佇んでいる男を、うんざりとした気持ちで見上げた。
「ホタルを見にきたんだよ。ここはホタルの里というのだろう?」
胡乱な眼差しで見つめるエドの視線に気がついたのか、男は微笑を浮かべながらそう言った。
「…ホタルなら」
「え?」
「ホタルなら、今夜は飛ばない。雨の日には飛ばないんだ」
「そうなのかい?」
そうか、残念だな。
口ぶりとは裏腹に、男は然程がっかりした様子も見せずに空を見上げた。
「風が止み、雨が上がれば、ホタルは飛ぶよ」
身体が弱り、最近では床についたまま起き上がることさえ難しくなってしまった父親に代わって、エドは部屋の鍵を取り出し男に手渡した。
「だからそれまで、好きなだけ居ればいい」
「ああ。ありがとう」
男は鍵を受け取ると、エドを見つめて再びにこりと微笑んだ。


細く続く山道を、ずっとずっと歩いた先に、小さく古びた宿屋が一軒ぽつりと建っている。
夏が近づく今頃は、無数のホタルが木々の隙間を縫って飛び交い、その幻想的な光景を一目みようと集まる旅人を迎え入れるために造られたこの宿は、林に囲まれた山間の僅かな隙間に建っていて、車も通えぬこの場所はいつしか人に忘れ去られ、いつか見た記憶の隅に残るホタルの残像を、まるでお伽の国の出来事だったと口に上らす人々が、憧憬の念を込め、この里を『ホタルの里』とそう呼んだ。
エドはこの里で生まれ育った。
エドが物心のついた頃には、既にこの里は『鬼の隠れ里』と呼ばれるようになっていて、以前は『ホタルの里』と呼ばれていたと知るものも今では少ない。
人々はホタルの代わりに、いつからかこの里に流れ棲みついた異形のものの話を口に上らせるようになった。
見慣れぬ金の瞳と金の髪を持つ二匹の鬼が人の姿を仮りながら、あの里にひっそり隠れ棲んでいるのだと、そう密やかに噂した。
この里で生まれ育ったエドは、父親譲りの金の瞳と金の髪を持っていて、人はエドを鬼の仔と呼び、恐れ怯える。
だからエドは滅多に里の外に出ることもなく、鬼と呼ばれる父親と、二人で静かに日々を暮らしている。

ひたひたと廊下を歩いて、コンコンと部屋の戸を軽く叩けば、中から男の返事が聞こえる。
「飯、できたから」
「ああ、そうか。もうそんな時間になるんだね。ありがとう、すぐに行くよ」
ぐつぐつと煮込まれた鍋を見て、鍋か、いいね。と男はエドに向かって笑いかけた。
「――まだ、夜は冷えるから。鍋にしたんだ」
「美味しそうだね」
「ウサギの肉だよ。ちょっとだけ、食べにくいかも」
「そうなのか。ウサギを口にするのは初めてだな」
そうして男は肉を一切れ口へと運び、うん、旨い。と微笑んだ。
エドが他人とまともな言葉を交わしたのは、これが初めてのことだった。
たまにこの宿に訪れる旅人は、一人と違わず誰もが死を望んでやってくる。
幾度も死のうと試みて、それでも一人で死ぬことが適わずに、鬼に喰われて命を落とそうと、誰もが昏い希望を持ってやってくるのだ。
出会い頭に喰ってほしいと強請られて、人を喰らう嗜好など持たぬエドがそれを断れば、口汚くエドを罵り、石を投げつけ、林の中に消えていく。
そんな人々と交わす言葉など、噛み合い成り立つはずもない。
こんな近くに他人が座っているのも、エドにとっては初めてで。
男となにか話をしようと思っても、何を話せばよいのかエドにはわからない。
なので、男が食事を終えるまで、ただ黙って座っていることしかできなかった。
「君、ずっと頭巾を被ったままでいるんだね?」
箸を置かれるのを見計らって、お茶を差し出したエドに向って、男が徐に話しかけた。
「え…」
鬼の証と言われ続けた金の瞳と金の髪を隠すため、エドは顔も知らない母親の着物をほどいて作った赤い頭巾をいつも被ったままでいた。
噂を知らずにいるのだろうか。そういえばこの男は一番最初にこの里を『ホタルの里』と言っていた。
ならば今は『鬼の隠れ里』と呼ばれていることも、そこに棲む『鬼』の話も何もかも、知らずにここまできたのだろうか。
だからそんな微笑を自分に向けていられるのかもしれないと、エドはそこで初めて気づいた。
「あ…」
「…いや、いいんだ。いきなり変なことを聞いて、すまなかったね」
俯いてしまったエドを見て、男は穏やかな声でそう言った。
自分が『鬼の仔』だと知ってしまえば、男は今すぐこの宿を飛び出していってしまうだろう。初めて父親以外の人間がこんなに側にいるというのに、もう二度とこんな機会は訪れないかもしれないのにと、エドはそれに恐れ怯えた。
そして、折角話しかけてくれた男に対して、まともに返事すら返せない自分を恥じた。
「ごめん…ね」
エドは目深に被った頭巾を再び、ぎゅうと強く被り直した。
男はそんなエドの姿をただ静かに見つめたまま、首を小さく横に振った。


なかなか寝付けず真夜中に、エドは一人身体を起こした。
隣に眠る父親が、静かな寝息を立てている。
父親が目を覚まさぬように、細心の注意を払って、エドは廊下に続く襖を開けた。
暗い廊下をひたひた歩いて、エドは男の部屋の前へと足を運んだ。
心臓がとくとくと音を立て、そのあまりの大きさに、静かな廊下にこの音が響き渡ってしまうのではないだろうかと、エドは両手で胸を押さえる。
真夜中すぎのこんな時間だ。男はきっと眠っているだろう。
それでもエドは諦めきれず、部屋の前で佇んでいた。
ほんの僅かな時間でいい。どんな些細なことでもいい。
男と話がしたかった。
ぼうと立ち尽くすエドの前で襖がカタカタ揺れて、中から男が顔を出す。
「…あ」
「ああ、君か。道理で人の気配がすると思った」
男は変わらず優しい顔で微笑んでいる。
「あの…、俺…」
「ん?」
話がしたいと言い出せず、エドはそのまま俯き口を噤んだ。
心臓の音がとくとくと鳴る。洪水のように外へと飛び出して、辺り一面溢れかえってしまいそうに、とくとくとくとく、心臓が鳴る。
「…どうにも静かで眠れなくてね。もしも君さえよかったら、ホタルの話を聞かせてくれないか?」
「うん。いいよ!」
エドが勢い込んでそう答えると、男はこそりと小さく笑い、おいで。と軽く手招きをして、エドを部屋に呼び入れた。


男の笑顔に促されるまま、エドは夢中で話をした。
ウサギの捕り方。山菜の見分け方。春に咲く桜の大木。
細く流れる小川のことや、そこに集まる魚の話。そしてそれから、ホタルのことを。
「風が止み、雨が上がれば、ホタルは飛ぶよ」
「ああ」
「ここのホタルはヒメボタルって名前があって、他のやつより小さいんだって」
「そうなのかい?」
「うん。父さんがそう言ってた」
「そうか。それは楽しみだな…。本物のホタルはまだ一度も見たことがないんだよ」
「そうなの?」
「ああ」
「綺麗だよ、とっても。ちらちら光が飛び交って、黒い夜がキラキラ光るよ」
「…そうか」
男は微笑みながら、エドの話を聞いている。
エドにはそれが嬉しくてたまらない。
身振り手振りをつけながら、夢中になって話し続けた。
「君は…」
「なに?」
「そうか、君は異国の子なんだね」
「え…?」
男が不意にそう呟いて、いつの間にか頭巾が外れて、剥き出しになっていたエドの髪にそっと触れた。
あまりのことに声も出ず、エドは恐怖で身を竦ませた。
頭に手をやり、解けた髪を隠そうと、闇雲に腕を振り回す。
『鬼の仔』だと。
男が知ってしまったら、もう二度と微笑みかけてはくれないだろう。二度と話もできないだろう。
金の瞳に、金の髪。
男が自分を『鬼の仔』だと知ってしまったら。
逃げ出したくても足が動かず、声にならない悲鳴を上げて、エドは男の視線から逃れようと、必死になって身を捩る。 
男が何か言っている。けれど、エドの耳には入らない。
泣き出しそうに顔を歪めて暴れるエドを、男はぎゅうと抱き締めた。
驚いて動きを止めたエドを抱き締めて、男はゆっくりとその耳元で囁いた。
「大丈夫だ。何も怖がることはない。大丈夫だよ」
大丈夫だと繰り返し、何度も何度も囁いた。
怖がっているのは男の方ではないのだろうか。俺が怖くはないのだろうか。
「なにが怖い? 君のどこが怖いと言うんだ?」
「――俺、髪…。目も…」
「ああ。綺麗だね。蜂蜜色で溶けそうで、月の光によく似てる」
人が『鬼の証』と噂する、金の髪と金の瞳を、男は綺麗と、そう言った。
とくとくと心臓が鳴る。震えて転がり出しそうに、とくとくとくとく、心臓が鳴る。
「明日…」
「うん?」
「明日、雨が上がったら。ホタルの場所を案内するよ。俺しか知らない、とっておきの場所があるんだ」
「ああ…。ありがとう。楽しみにしているよ」
男は吐息で微笑んで、エドの身体を抱き締め直した。


林の中の道なき道を、二人で歩いた。
ホタルは人工の灯りを嫌うので、二人はともに連れ立って、ひたすら続く暗闇の中、崖を下り、沢を超え、倒れた木々を乗り越えて、黙々と歩き続けた。
「ここだよ」
声を潜めて、エドが囁く。
「凄いな…」
男が感嘆の声をあげた。
辺り一面に広がった、そこは幽玄の世界だった。
漆黒に塗られた暗闇を、縦横無尽にホタルが飛び交う。
金の光が帯をなし、淡く揺らめき瞬いている。
「綺麗だな…。金の雪が舞い散るようだ」
「うん」
二人はそれきり口を噤んで、身動き一つ見せずにホタルを見つめていた。
ホタルの一生は短い。
メスのホタルは産卵を終えると同時に、その一生に幕を閉じる。
点滅を繰り返す金の輝きは、たった一つの愛を求めて、今を盛りと燃え尽くされる命の煌めき。
「…まるで」
「え?」
「まるで、君のようだな」
君の瞳と、君の髪。
この世界の全ての光を集めたように、キラキラ眩しく輝いている。
男はそう呟いて、エドの髪にそっと触れて、指で梳いた。
とくとくと心臓の音が高鳴って、エドは堪らず男の袖口を掴み握り締めた。
「…して」
「え?」
「ぎゅ、って。して」
必死な様子でそう囁いたエドの手を、男は優しく引き寄せて、その掌で包み込み、しっかり握って解けぬように、ゆっくり指を絡めていった。
重ねた掌のぬくもりが、絡めた指の先からじわりじわりと伝わってきて、エドの心に明かりを灯し、身体のうちに滾る熱を孕ませた。
ちゅくちゅくと音を鳴らして重なる舌が、とくとくと早鐘のように鳴る心臓の形そのままに、互いの命を合わせて絡め、赤く赤く燃え上がる。
さらりさらりと音がして、金糸が闇の中を舞う。
一夜限りの命を燃やす、それはまるでホタルが放つ、淡く揺れる光のように。



雨があがって、風が止み、ホタルが飛んだ今宵のことを、これから続く幾つの晩に、エドは夢に見るだろう。
何度も何度も一つの夢を、繰り返し幾度となく見続けるだろう。
明日の朝には街に帰る男はいずれ、白く雪が舞い散る晩に、ホタルが舞った今宵を想い、そして彼もまた同じ、儚い夢を見るのだろう。





コピー誌『あるきだした夏』より。ロイエド。


モドル