『ペット禁止』のアパートの一室、俺たちはネコを一匹飼っている。


優しい木曜日



「にぼしー。うおーい、にぼしー?」
返事がない。
いつもならどこからか現れて、嬉しそうにニーと鳴くのに。
俺たちはネコを一匹飼っていて、名前を【にぼし】といった。
にぼしは、ニャアとは鳴かずにニーと鳴く、耳の部分の黒が際立つ、基本は白い気まぐれ猫だ。
「にぼしー。にぼしちゃーん?なんだよ、まだ戻ってねえの?」
今日でもう三日目だ。
ネコゆえに、家をでたままフラフラと何日も姿を見かけないことはあっても、いつの間に!と思うくらいに餌だけは、ちゃんと食べに戻っていたのに。
「なあ、ロイ?」
窓際で背中を丸めてパチリパチリと爪を切っている男に声をかけた。
こちらもまた返事がない。
「ロイってば」
「んー?」
「最近、どっかでにぼしみた?」
「…いや?そういえば見かけないな」
そう言うと、すぐに興味を失ったように再び爪を切り出した。
「どこをほっつき歩いてんだか…。それとも他にいいトコでも見つけたのかな。…まるで誰かさんと一緒だなー?」
パキリ、と爪の折れる嫌な音がして、ロイが小さく呻き声をあげた。
そしてやはり、返事はない。
「じゃあ俺、仕事に行くから。にぼしが帰ってきたら、ちゃんと餌やっといてな?」
「ああ、わかった」
「アンタの飯は、冷蔵庫の中に入っているから。ちゃんとチンして温めろよ?」
「ん。わかった。…行ってらっしゃい。気をつけて」
ロイはにこりと笑ってそう言うと、ひらりと俺に手を振った。



俺がロイと暮らし始めて、半年が過ぎようとしていた。
その間、俺がロイについて知ったことはといえば、風呂はぬるめが好きだとか、コーヒーならブラックだとか、
一緒に暮らしていれば誰にだってわかるような、そんな些細なことばかりだった。
何処で生まれて、何処で育って。今まで何をしていたかとか、そういうことは何一つ知らずにいる。
名前は知っている。ロイ、とそう名乗ったからだ。
俺とロイが出会ったのは、夏の終わりの木曜日。
急に降り出した雨を避けて駆け込んだ店の軒下、同じように駆け込んできた男と目が合い言葉を交わした。
「やあ」
「あ…、どうも」
「降られたね」
「…そうですね」
にこにこと微笑みながら話しかけてくる男は、旅行鞄を一つ提げ、楽しげに通りを見つめていた。
見慣れぬ顔だ。旅行者なのだろうか?ここには観光するような場所はひとつとしてないのだけれど。
通り雨だと思ったそれは、なかなか止む様子を見せなくて、これはいよいよ本降りになりそうだと、
走って家に帰ろうとしたその瞬間。
「ところで、君」
「え?」
「ここは一体、何処なのかな?」
「…は?」
目的もなく電車に飛び乗り、なんとなく駅を降り、当てもなく歩き続けていたら、ここに辿りついていてね。
電柱に貼られた番地を見ても、知らない地名ばかりが続く。
そういえば、ここは一体何処なんだろうと思ってね?
そんなことを、のんびりと笑いながら言っていた。
旅行者だとばかり思った男は、実はただの迷子だった。
「アンタ…。行くあてがないなら、うちにくる?」
「…いいのかい?」
「いいよ、別に。盗られるものなんて家にはないし、まさか俺の命とろうなんざ考えてねえだろ?」
「ははは。まさか」
「なら、いいよ。…くる?」
「では、お邪魔しようかな」
警戒心がなかったわけではない。ただなんとなく口に出してそう言っていた。
他所の飼い猫を雨宿りさせるくらいの気安さで。
あれは雨が降りやまなかった夏の終わりの木曜日、優しい午後の出来事だった。
それからずっと、ロイは俺の家で雨宿りを続けている。
お互いの素性を知らぬまま、そうして二人で暮らしている。