ジュテーム・ジュテーム



時計の針が、2時を指している。
――いい加減、もう寝るかな。
そう思って部屋の灯りを消しに立ちあがったところで、玄関の扉をドカッと蹴りつける音がした。
――ああ、風かな。
そんな風に己を誤魔化したところで、再びドカッドカッと音がする。
このまま放っておいたなら、恐らくあの頑丈な足は玄関の扉を突き破り、下手すりゃ俺の腹もぶち抜くだろうと諦め半分、扉に向かう。
「…よぅ」
「遅せぇよ。もっと早く開けろっての」
目の前に立っていたのは予想に違わず、お隣さんの豆粒ドチビ。
両手に何やら色々抱え込んで、なんだかとってもエラソウだ。
「俺ぁ、もう寝るんだけどよ」
「ああ、勝手に寝ていいよ。俺は勝手に遊んでるから」
そういう問題じゃねえんだと、今まで何度心を尽くして語り聞かせてきたことだろう、この豆に。
如何せん、この豆は人の言うことを素直に聞き入れるような豆じゃなかった。
「・・・で?今日は何を持ってきたんだ?」
「プレステU。クロックタワーやんの」
「んなもん一人でやれよ。お前は〜…」
「一人でやるよ。だから寝てていいっていってるじゃん」
真夜中にそんなもの一人でやれるか。怖えぇんだよ!と今度は逆ギレされた。

雰囲気を出すんだと、部屋中の灯りを全て消して、今はテレビの明かりだけが唯一の光源だ。
テレビの前にどっかり座った隣に住む豆――いや、エドワードは、怖ぇ、怖ぇと言いながら、それでもコントローラをしっかり握って離さない。
こんな風に、エドが真夜中に家に訪問するようになったのは、何も今日が初めてのことじゃない。
夜勤だったり朝番だったりで毎日不規則な生活を送っていた俺は、近所付き合いなどとは全くの疎遠で、だから隣に誰が住んでいるのかなど知るよしもなかったし、それまでは気にしたことすらなかった。
そんな日々が続いたある日の夜、いつものようにコンビニで買った弁当をぶら下げて帰ってくると、玄関の脇に一人の少年が座っているのに気がついた。
「こんばんは。今夜は寒ぃね」
誰だ、お前。と当たり前すぎる台詞をいうのも躊躇されるほど、あまりに自然な様子でその少年は笑って言った。
「…なに、してんの?」
「お留守番してんの」
「いやいや、外でかよ?」
よくよく聞けば、その子供はお隣さんに住む子供らしい。
鍵を家に忘れたまま遊びに出かけてしまったものの、家の者がまだ帰ってこないので、中に入れないのだとそう言った。
隣の家に子供がいたのを知ったのは、実はこの時が初めてで、それなら以前一度だけ見かけたことのあるあの黒髪の男は、この少年の父親だったのかと、俺は一人納得してみたりした。
「なあオイ、少年。なんなら家にくるか?」
「うん。…あのね、俺。エドワードって言うんだ」
思いつきで出した提案に、少年は嬉しそうに頷きながら、よろしく。とそう微笑んだ。

「うおー。怖えぇー。ありえねえー…」
「…お前ね。んなビビリまくるくらいなら、最初からやらなきゃいいだろうがよ」
「何言ってんの。この恐怖感がいいんじゃんか。…ぎゃ。出た!斧男〜!」
「なんだかな…」
なんとなく、今日も来るんだろうなとは思っていた。
思っていたからこそ、明け番直後で眠いっつーのにこんな真夜中まで起きていたわけなんだし。
来られたら来られたで、それはそれ微妙なとこではあるのだけれど。
初めてエドを部屋に招き入れたのは、真冬の夜の金曜日。
それからエドが部屋に顔を出すようになったのも、決まっていつも金曜の夜だけだった。
「あー、腹減った…」
「なんだよ。晩飯食ってないのか?つーか、よくそんなもんやりながら、物を食おうという気になれるな」
「昼に食べたからいいかなーって思って。それにゲームは関係ないよ、別腹だもん」
それはちょっと意味が違わないか?とは思ったが、とりあえずすぐに食べられそうなものがあったかと、コンビニ袋を探ってみる。
「…ごんぶととラ王、どっちがいい?」
「んー、ごんぶと」
「おう」
キッチンと呼ぶにはあまりにささやか過ぎる台所に立ち、やかんに火をかけ、お湯が沸くのを待つ。
エドがいないお隣さんから、薄い壁を通して、キャーと甲高い女の笑い声が響いてくる。
若い女の声だ。先週の女はもうちょっと慎ましい声で笑っていた。恐らく別の女なのだろう。
「あーあ」
「どした?」
「ゲームオーバー。逃げ切れなかった」
エドは手にしたコントローラーを投げ出しながら、どさりとその身も投げ出している。
テレビの光源に照らされて、エドの右腕が鈍色に光っていた。
「なあ、ごんぶとは?」
「今、お湯を沸かしてる。もうちょっと待て」
「んー…」
交通事故に遭ったのだと聞いた。
その時に両親と弟を亡くしたのだと。
そして自分自身は、片手と片足を失ったのだと、鋼で造られた腕を擦りながら、そう言った。

「叔父さん?父親じゃないのか?」
「違うよ。ロイは母さんの弟だから、俺の叔父さんに当たるわけ」
年中コンビニ弁当ばっかりじゃ飽きるだろうと、エドがその日持ち込んだのは、でかい鍋一つと袋に入ったままの揖保の糸。それと、麺つゆ。
「俺は、てっきりお前の父親なんだと思ってた」
「そんなこと言ったら怒られるぜ?大体、叔父さんって呼ぶことすら禁止されてんだ、俺は」
「なんで?」
「老けて聞こえるからだって。…なあ、やっぱりネギも持ってくればよかったな?」
「別にいいよ。このままでも旨い」
エドが茹でた素麺を二人でずぞっとすすりながら、俺は以前見かけた黒髪の男がエドの叔父だという新情報を得ていた。
「母さんの両親、つか、俺の爺さんと婆さんはさ、母さんがまだ結婚する前に二人とも死んじゃったらしいし、父さんはもともと天涯孤独の身の上だったらしいから、結局ロイしかいなかったんだよ。俺をひきとってくれそうなのって」
「ふーん…」
「だからさ。…だから、俺にはロイしかいないから」
「…そうか」
だから、失いたくないのだと、大事なんだとそう言って、エドは素麺をすすった。

「あー、あれも持ってくればよかった」
「ああ?」
「『呪怨』」
エドはホラーものを好んで見たり、遊んだりしている。
いつだって両手いっぱいにそういうものを持ち込んでは、怖ぇ、怖ぇと言いながら、それらを食い入るように見つめていた。
多分、本当にホラーものが好きなわけではないのだろう。
怖いのだ。自分の置かれている不安定な状況が、怖くて怖くてたまらなくて。
だから、ホラー映画を観る。だから、ホラーゲームをプレイする。
自分が感じている恐怖を上回る恐怖を感じて、それを誤魔化してしまえるように。
それを打ち消してしまえるように、だからエドはホラーものを観て、遊ぶ。
きゃははははは。隣からまた笑い声が聞こえてくる。それと、密やかに響く男の声。
決まって毎週金曜日、毎回違った女を家に連れ込む男。
その都度、家を追い出される少年。両手いっぱいに遊び道具を抱えて。
シュシュシュシュ。と、やかんからは沸きあがった湯気の音。
あんあん、あぁーん。お隣さんから聞こえてくる女の喘ぎ声。
「…どこがいいんだろ。あんな女」
「お湯、沸いたぞ」
恐らくエドは自分の叔父に、それ以上の感情を抱いている――。
俺はエドの呟きに、聞こえなかったフリをした。

「大体さ、女の趣味が悪ぃんだよ」
あち。勢いよく麺をすすり込んだエドがそう小さく呟いた。
「…フーフーして食えよ?火傷すんぞ」
「子供じゃねっつの。…水」
「あー、ハイハイ」
再び台所に立ち、冷蔵庫からミネラルウォーターの入った小瓶を取り出した。
「毎回毎回さー。いかにも頭の悪そうな、ついでにアソコの締まりも悪そうな女ばっか連れてきてさー」
「…お前、えげつないこと言うなよ」
俺はそう言いながら、エドに小瓶を手渡した。
「だぁって、本当のことなんだもんよ。…俺だったら、あんなん絶対ヤダ」
ヤダヤダ。俺だったら、もっとずっと。
「なんだよ、お前。食わねえの?」
どさりと再び床に身を投げ出して、エドは天井を見つめている。
「…もうちょっとだけ冷めたら、食う」
付けっぱなしのテレビが映し出す、モノクロ画像の古い映画。
巻き毛の女が、男に愛を囁いている。
――貴方が好きよ。死ぬほど好きなの。
「俺だったらさ、あんな女なんかより、もっとずっと」
――他の誰より、貴方のことを。
「…キスだって、フェラだって」
――そうよ、私は貴方のことを。
「セーエキもちゃんと飲み込むし、女の子じゃないけどセックスだって」
――愛しているわ。愛しているわ。
「なんだって、できるのに」
――ジュテームあなた。愛しているわ。
テレビの中で繰り広げられるラブシーン。
あんあん、もうだめぇ、アタシ死んじゃうー。
隣の部屋から聞こえてくる、悲鳴のような喘ぎ声。
「…エド」
「んあ?」
「お前、遊園地って好き?」
「…なんだよ?急に」
泣いているかと思った少年は、泣きそうに目を潤ませながら、それでも泣いてはいなかった。

給料が入ったら、エドを遊園地に連れていってやろう。
今月はちょっと頑張ったから、いつもよりはゆとりがあるはずだ。
早く大人になりたくて、背伸びばかりしているこの子供を連れて。
遊園地に行ったなら、エドが好むホラー系のお化け屋敷なんかじゃなくって、ゆっくり廻るあの大きな観覧車に二人で乗ろう。
ゆっくりゆっくり時間をかけて、ぐるりと世界を廻るんだ。
小さく切り取られた世界を一周、小さく狭い箱舟に乗って。
「…ごんぶと」
「ん?」
「冷めてんぞ」
「…うん」
容器の中で、白い麺が汁を吸って茶色に変わる。
すっかり冷めきってしまったカップ麺の白い容器に、いつまでも続く映画のラブシーンがぼんやりと映し出されていた。








壁の薄いアパートに住む人たち。

モドル