|
Innocent
彼女に初めて会ったのは、幾度目かのセンチメンタルジャーニーの途中、汽車が滑るようにエフェスの街を出発した時のことだった。 それはエーゲ海に煌めく太陽、キラキラとした笑顔を浮かべてはにかむ彼女は、まるでヴィーナスさながらに。 いつも明瞭な言葉を選ぶ、そんな彼女が電話越し、途切れがちに言葉を紡ぐ。 私、あのね、エドワード君に言おうと思っていたことが、あって。 長い時間をかけて発せられた言葉は、きっと言いにくいことなのだろう、いつもの彼女らしくもない、歯切れの悪いものだった。 なにげなく頷いた、うん、という相槌は、何故か鼻にかかって掠れてしまった。 エド君は、優しいと思うの。とても。いつも優しい言葉をくれるし、甘やかしてもくれるわ。でも、でもね。 エフェスの街からイズミール、耳に馴染みはじめていた彼女の声が、今は遠くに聞こえる。 でもね、私には優しすぎるの。私なんかには勿体無いって、思ってしまうの。 言葉を選んで話す、彼女こそがきっと優しい。 俺のことを傷つけないように、自分も傷つかないように、考え選んだ言葉で懸命に話している。 うん、と再び頷いた言葉には、どうにもならない涙が混じった。 敏感で聡い彼女は、気配に気づいて押し黙り、意を決したように大きく息を吸い込むと、早口で言葉を続けた。 甘くて優しい言葉を私にくれるエド君が好きよ。嬉しくて、お姫様になったみたいな気持ちになれるわ。でも私は欲張りだから、それだけじゃダメなの、もっとドキドキしたいと思ってしまうの、我が侭なのはわかっているけど。 そう言って、彼女は口を噤んだ。 愛しいヴィーナス、本当に可愛い子だと思う。その先を俺に言わせようとする、そのずる賢さも。 ごめんね、と俺は言った。いやだ、謝らないで。と彼女が言った。 電話口から聞こえる声が、涙声になっている。ごめん、ごめんね。俺は唇を噛み締めた。 今度こそ上手くいくと思ってた。君は本当に可愛くて、センチメンタルだった俺の心を明るく照らしてくれた、太陽みたいな女の子だった。 行列つくる流行の店に行きたがるわけでもなく、退屈な映画を観たがるわけでもなく、ただ一緒に居られるだけで幸せよ、なんて、君が言ったその言葉こそが幸せで、絡める腕も指も柔らかで、俺は本当に君のことが好きだった。 ああ、でもごめんね。 いつの日からか、俺は君の中に入りながら、違う人を想ってた。 癖のない黒髪に指を通すたび、その髪が乱れる様に、違う人を重ねてた。 反らされた喉に接吻けたら、どんな反応をするんだろう。あの声はどんな風に艶を帯びて、俺のことを惑わすだろう。俺を締め付ける君の中で、あの人の中はどれほどまでに熱いだろうかと、そんなことばかりを考えて。 こんなはずではなかったのに、いつの間にか俺は自分と同じ身体の作りなあの人の、先生の中に入りたいって、そればっかり願ってた。 罪悪感とかそういうの、もう居た堪れなくって、君にも先生にも、だから君とも距離を置いて、だから本当はこんな電話は俺の方からするべきだったのに、しかもこんなときに、この状況で。 耐えていた涙が一筋、眦から零れ落ちていく。 最後の電話だ、彼女の言うことは全部聞いてあげたいと思うのに、ほんの僅か耳から電話が離れた瞬間、耳の中に熱い舌が入り込み、遠くで聞こえる彼女の声よりずっと近くで、濡れた音に犯される。 舐る舌から逃れて、再び電話を耳にあてた途端、首筋を舐め上げられて、俺は強く唇を噛みしめた。 俺の願いは結局叶いはしなかったけど、想いを告げたら、突然目の色を変えやがった先生に、秒速で押し倒されて、わけがわからず喘ぐうち、組み敷かれて突っ込まれて、掴んだシーツが千切れるほどに揺すられた。 涙が溢れて声が枯れ、散々やりつくした後で、入れるつもりが入れられたと気づいたときにはもう遅く、既に慣らされてしまった身体は先生の指先ひとつで舞い上がってしまうから、今こんな大事な電話の最中にだって、押し当てられた唇の熱さに俺は狂いそうになっている。 「・・・エドワード」 「っ、ふ・・・」 電話をあてていないほうの耳元でそっと名前を呼ばれ、大きく突き上げられて、声が出た。 泣かないで、エド君。彼女が言った。 |