「…いッ!痛ってー…」
宿に戻りシャワーを浴びながら、首筋にチクリとした痛みを感じた。
鏡を覗き込んで愕然とする。
――染みるはずだよ。血が滲むほど噛み付かれれば…。
先程の変態に噛まれた跡が、しっかりと歯型になって残っていた。
そしてその傷口を囲むような赤黒い鬱血の跡。
――歯型が残るほどに噛みつくなんて、やっぱ危ない男だったんだろうなあ。
殴り倒して正解だったと、自ら男を誘った事実など今ではすっかり忘却の彼方だ。
とりあえず、当初の目的は果たした。些か予想外の収穫ではあったけど。
――気づくかな?もしも、気がついたなら。
これを見て、大佐は一体どんな反応を示すだろうか。
――怒るかな?それとも…呆れる?
後者の可能性が高いような気がするのは、やはりあの男が本気ではないと思っているからなのかもしれない。
好きだと言われた。愛してる、とも。
キスだって、した。
でも、それだけだ。…ただ、それだけ。
拒んだ覚えもない。
そりゃ最初は驚いて…。驚きすぎて殴ったこともあったけど。
好きだと言われて、キスをした。
けれど、決してそれ以上触れてはこない、あの男。
本気で俺を、好きだっていうんなら、…愛してるっていうのなら、
俺を欲しいと思わない?
心も身体も丸ごと全部。
―――俺を手に入れたいとは、思わない?

***

その日は、やけに蒸し暑い一日だった。
「こんちはー…」
久しぶりに訪れた、中央司令部・マスタング大佐の執務室。
「あら、エドワード君。お久しぶりね?」
「あ、中尉。お久しぶりです…」
「おお、大将!帰ったかー」
「うん、ついさっき…。久しぶり、少尉」
それぞれ見慣れた面子が顔を揃えて、にこやかに挨拶を交わしてくる。
「…随分とご無沙汰だったな、鋼の」
いつものように半拍遅れて、いつもの場所で皮肉めいた微笑を浮かべて。
「今回の旅は、どうだった?少しは良い報告を期待してもいいのだろうね?」
そして、毎度お決まりの嫌がらせも忘れない。いつも通りの大佐がそこにいた。
「報告書にちゃんと纏めてありますから…」
読め。とりあえず。
そう思いながら、目の前に報告書をペラリと突き出した。
「ほう、これはこれは…。3ヶ月も連絡なしでこの枚数!君の熱心さには、本当に頭が下がる思いだよ」
「…仕方ねえだろ、大して書くことなかったんだから」
「では、収穫は?」
「…何もございませんでした!全くもって皆無です!」
この野郎…。どうして毎回なんでこうも巧みに人の傷口抉れるよ…?
ギリギリと歯噛みをしていると、脇からぬっと手が伸びてきた。
「…わっ!」
「あら、ごめんなさい。お茶でもいかが?と思ったものだから」
ホークアイ中尉が、いつものポーカーフェイスのまま、冷えたお茶を差し出してくる。
「あ…。どうも…」
妙に拍子抜けした俺は、大人しくそれを受け取った。
カラン…と氷がグラスにぶつかる音がする。
「今日は、とくに暑っついなー。なあ?大将」
パタパタと襟元を仰ぎながら、ハボック少尉が気の抜けた声で話しかけてきた。
「え?ああ、うん。暑いね…。外の方が返って涼しいくらいだよ」
「ああ、やっぱり?…大佐ー、俺、上着脱いでもいいですか?」
絶妙に間の抜けた、それでいて歌うようなリズムで少尉が大佐にそう尋ねる。
「別に、構わんよ。…鋼の。君も暑いなら上着を脱いだらどうだ?」
「ああ、うん。そうだね」
すっかり毒気を抜かれた俺は、だから思いきり油断していたのだ。
昨日まではあんなに意気込んでいた、ここに来た当初の目的を。
「…た、大将?」
「なに?」
「それ、その首筋…、どうした?」
「…え?」
――あ。
忘れてた。首筋にはあの変態に付けられた噛み跡が、今でもくっきりと残されていることを。
動揺した。思いきり、うろたえた。
慌てて首筋を手で押さえる。
「あ…と、え…っと…」
上手く言葉が出てこない。
焦りで顔に血が上る。きっと今、俺の顔は真っ赤に染まっているだろう。
こんな風に見せつけるつもりではなかったのだ。
ほんの少し、大佐が気づくか気づかないか、その程度のつもりで。
だから言葉が、出てこない…。
その時、バンッと大きな音がして、俺は思わず首を竦めた。
「そろそろ昼時だな…。ちょうどいい、一緒にランチでもいかがかな?」
反射的に振り向くと、俺を見つめる大佐の目と視線が合った。
いつもと同じ皮肉めいた笑顔をこちらに向けながら、それでも目が笑っていない。
射るような視線が、俺を突き刺す。
「あ、いや…。俺は…」
「いいじゃないか。たまには付き合い給えよ。今回の旅の成果でも、じっくりと聞かせてもらおうか。…なあ、鋼の」
すっと目を眇めるようにしながら、笑っている。
俺はぞっと背筋が凍るのを感じた。