奈落の恋



髪を引かれ、顎を掴まれ、引き寄せられる。
いつもの軽く触れ合うキスとは違う、呼吸さえも奪われるような激しい接吻。
「ふ…あっ…あ、大佐…っ!」
唇が離れた瞬間、溜息にも似た声が漏れ、瞳を開けて見つめれば、
そこには、食いつくように目を光らせた獰猛そうな顔つきの、知らない男の顔があった。

***

俺は夜の街に一人立っていた。
バカなことをしている自覚は、多分にある。
俺はこれから見知らぬ男に買われようとしているのだ。
「なあ、お前…。これでどうだ?」
俺の前で立ち止まった男が、目の前で数枚の札をちらつかせる。
「ああ…、いいよ」
俺はそう答え、男の後をついていった。
本気でこの男と寝るつもりなんてない。ほんの少しの我慢すればいいことだ。
そう、自分に言い聞かせる。
「この辺りで、いいだろう」
「ここって…、この路地裏で?」
「ああ、そうだ。充分だろ?それに誰かに見られるかもしれないって方が、きっと燃えるぜ?」
そう言うと、男は振り返ってニヤリと笑った。
――本気かよ。どうしようもねえな、この変態め。
路地裏の冷たい壁に背中を凭れ、男の暑苦しい息遣いを間近に感じる。
些か露出趣味があるらしい男は、それでもいきなり変態プレイを強要してくるつもりはなかったらしく、今はひたすら俺の身体をまさぐり続けていた。
――気持ち……悪っ!
ざわざわと湧き上がる悪寒に必死で耐えながら、それでも鳥肌が立つのを押さえられない。
俺は今にも吐きそうになる感覚を堪えながら、全ては明日のためだと必死に自分を納得させた。
――そう、明日。
俺は報告書を携えて、いつものように中央司令部に出向くつもりでいる。
その時にほんの僅か、どんな些細なものでもいい、情事の跡を残して行きたいだけなのだ。
理由は一つ。
大佐を、試したい。
あの男が本気かどうか、それを知りたい。
会えばいつも、子供みたいな嫌がらせをしながらイヤミばかりを言う男。
その癖、二人きりになってしまうと、途端に好きだ好きだと言ってくる。
『好きだよ、鋼の。愛してる』
まるでそれしか知らない子供のように、何度も何度も繰り返し俺に言う。
そして、そっと触れるだけの接吻。
「…っあ」
身体の奥から熱い塊がジンとせりあがってくるようなその感触を思い出し、知らず小さく声が洩れた。
「はあ…、気持ち、いいだろ?」
何を勘違いしたのか、目の前の男が嬉しそうに俺を見上げた。
――気持ちいいか、だってさ…。
んなわきゃねえだろ。気持ち悪いんだよ、この変態。
でもまあ、これも全部明日のためだ。今はまだ我慢の時だ、と思いたい。
男の手が、無遠慮に俺の身体を撫ぜまわす。
ハアハアと鼻息も荒く、すっかり欲情しきった、そののぼせあがった顔を見ながら、俺は不思議な気分を味わっていた。
大佐は、俺を好きだという。
でも今までこんな目で、俺を見たことはない。
この男は、特別俺にどうこういった感情を持ち合わせてはいないだろう。
なのに俺に向ける眼差しは、飢えた獣そのものだ。
…わからない。
好きじゃなくても、欲しくなる…のは、この男を見ていればなんとなく、わかる。
でも好きだったら尚更に、欲しいとは思わないのだろうか。
…やっぱり大佐は、俺のことなんて――。
「ッ!痛っ…!」
すっかり気を逸らしていたら、いきなり首筋に噛みつかれた。
歯を立てて、滲んだ血を舐めとっているらしい。
――冗談じゃねえっ…!
流石に、そこまでは予想外だにしていなかった。
我慢も忍耐も限界を超え、俺は目の前の男を手加減容赦なく殴り飛ばすと、そのままその場を後にした。