inner bell



「俺は大佐になら身体を許してもいいと思えるほどに腹を括って好きなんだけど、大佐は俺に色々とする気ある?」
徐に執務室を訪れた少年は、ノックもせずに足音高く室内に入り込むなり、こう言った。
たまたま書類を積み上げていた、ブレダ少尉が書類を辺りにぶちまけた。
たまたま紅茶を飲んでいた、ハボック少尉は鼻から茶を噴出した。
たまたま部屋に居合わせたのが、この二人しかいなかったのは幸であるのか不幸であるのか。
なんとも言えない沈黙の帳が降りてきて、誰もが動きを止めた部屋の中、かの問題発言をぶちかました少年は、
男らしくも堂々と、ペンを走らす手を止めたマスタング大佐だけを見据えている。


**


常宿としている宿屋の裏庭で、エドワードは静かに目を閉じていた。
パン、と手を打ち鳴らせば、思惑通りに盛り上った地面がもこりと小さな山を作る。
よっ、と掛け声も爽やかにエドワードはその山の上に立ち、大きく息を吸いこんだ。
兄さん、なにしてるの。窓から顔を覗かせている、呆れた弟の声に適当な応えを返しながら、エドワードは目の前にある街を、空を、その先を見渡そうと躍起になっていた。
やはり、にわか身長ではダメなのだろうか。かといって、日頃から望む身長が、じゃあとばかりににょきりと伸びるはずもなく、我ながらいい案だと思ってはみたのだが…、しかし。
「…わっかんねえなあー…」
呟いた声は、風の音にかき消されていった。
そう容易く事は運んでなどくれないらしい。
目線をあの男と同じにしてみれば、何かが掴めるかも知れないと思ったのだ。
――あの男、ロイ・マスタングを。


既に日が沈みきってしまった図書館からの帰り道、街角で出会ったのは確かに偶然だったのだと思う。
「わ、大佐…!?」
「…ん?鋼の?」
どこだ、鋼の。気配はするが、見当たらん。
目の前に立ちはだかってそう言った、男の向う脛を思いっきり蹴飛ばしてやった。
「どうして君はそんなに乱暴なんだ…」
「アンタが懲りずに似たような嫌がらせを言うからだろうが」
い…っ!と短い悲鳴をあげた男が、脛をかかえながら拗ねている。
挨拶のつもりだったんだ、とかなんとかブツブツ言っている男からは、不釣合いなまでに芳しいフローラルの香りして、仄かに鼻腔を擽った。
「大佐…」
「んー?」
「もしかして、今まさにデェト帰りとか言っちゃう感じ…?」
「…お。何故わかった?もしや、そんな君でも成長してるのかね、豆は豆なりに」
殺されてえのかな?と思いながら、力いっぱい拳を握った。
嘘です、冗談です。即座に答える声が、僅かに裏返っている。

「…恐ろしく似合わねえことにも、アンタからお花畑の匂いがすんだよ」
「はは、お花畑はよかったな」
何を思ったものか、宿まで送っていってやろう。と言い出した男が、何故か俺の隣を歩いている。
歩幅を俺に合わせているのだろうか、いつもよりも緩やかに、自然な態度でゆっくりと。
悔しいけれど歩幅の全く違う自分が、苦もなく歩けるということはそういうことなのだろう。
大佐と二人で並んで歩くことなど、そうそうあることでもない。
なので、こういう妙な気の廻し方をされると、なんていうのか、悔しさと同時に優しさ、なんてなものまでを感じてしまうため、俺としては大層困ったことになる。
擽ったいような慣れない感覚に視線を彷徨わせながら、さっきまで大佐の隣を歩いていただろう、顔も知らないフローラルな人の気持ちを疑似体験した気分になった。そして、なんとも言えない気持ちになって、
「あのさ…、その、お花ちゃんって、どんな人?…大佐、その人と付き合ってんの…?」
聞いてみた。
普段は理由あって避けて通る話題なのだが、ここはあえて聞いてみた。
「お花ちゃん、って君…」
「だって、名前とか知らねえし」
「そうだな…。それはそれは、可愛らしい人だったよ。今日お付き合いを初めて、先程お別れをしてきたところだ。もう、会うこともないだろうが」
「…なんじゃそら!」
「いや、すまないね。もてるんだ。次が控えているのでね。なんせ、もてるから。一人に絞るわけにはいかないんだ。いや、本当に申し訳ない」
いっそ清々しくも、飄々と。
そんな大佐を横目で見ながら、俺は唖然と立ち尽くした。
「どうした?」
「どうした、じゃなくてさ。つか、かわいそうだろ…」
「なにが?」
「なにが、って。その、フローラルの香りの人さ…。大佐のこと、好きなんだろ?」
「ああ、そうだね」
「そうだね、って…」
もうすっかり過去のことだと言わんばかりに、抑揚のない淡々とした声色で。
そっち方面、非常に派手な男らしいとは、噂に聞いて知っていた。
知ってはいたが、自分が知っているこの男と、その噂の主がどうにも一致しなくて、同一人物だとは思えなくて、だから知っていたけど、知らなかった。というか、いま一つ信じられない。
自分が知るロイ・マスタングという男は、もうちょっと誠実な男だったはず、だと思う。
「…大佐は?」
「ん?」
「大佐は、その人のこと好きじゃなかったの?」
「…え?」
大佐が心底驚いた、という顔をしているのを見て、むしろ、俺が心底驚いた。
驚愕の後を追うように、噂はまことであったのか、という衝撃までもがやってきた。
「好きじゃなかったの?え、なにそれ。『遊び』とかっていう…」
「いや、違う。遊びじゃない。遊びで女性と付き合ったことなど、一度もないよ」
「じゃあ、ちゃんと好きだったんだな?」
「――…女性は好きだよ。柔らかくて、温かい…、優しい夢を見せてくれる」
返った言葉は、答えになってはいなかった。
けれど、思いのほか真摯な態度でそう返した、大佐にすればそれが答えなのだろう。俺にはよくわからなくても。
「優しい、夢…」
「そう。…いつか君にもわかる日がくるよ」
そう言って、大佐は微笑うけど。
それは、例えば。
その人が側にいるだけで、妙にソワソワ落ち着かなかったり気恥ずかしかったり、たとえ側にいなくても、思うだけで嬉しくなったり優しい気持ちや、溢れるように様々な感情が、なんていうのか、ベルみたいに。
強くなったり弱くなったり、音色を変えて、鳴るような。
「なあ、ベルとか鳴る…?」
「は?」
「や、だからさ。そういうときって、音が鳴らねえ?なんつーか…、ここらへんで」
言いながら、胸のあたりをぽすりと手で抑えた。
「…なんだ、君にもそういう相手がいるのか」
大佐はふっと目を眇めるようにしながら、僅かに微笑んだ。
「いる、っつーか…」
いるは、いる。というか、目の前にいる。おかげで先程から俺の中で煩いくらいにベルが鳴り響いている。
「…鳴らないな」
「え?」
「優しいひとに、どんなに柔らかく包まれようが。…ベルは鳴らない」
「鳴らねえの…?」
夢を見せてくれるって言ったじゃねえか。それはアンタにとって幸せな夢じゃねえのか?
「恐らく、私の中にも君のいうところのベルは存在するのかも知れん。けれど、今ではすっかり錆び付いてしまって、もう音を鳴らさない」
「大佐…」
「…なんて顔してる。君がそんな顔をすることはないだろう?」
「俺…、どんな顔してる?」
「とても悲しそうな顔を、してるよ…?」
――ああ、それは。
大佐が俺の頬をむにっと抓んで、苦笑している。
それは、俺がアンタにつられたからだ。アンタがそんな顔をしてるから。
なあ、大佐。気づいてねえの?アンタ、すげえ寂しそうだよ。
気づいてねえのか。やべえな、俺。…泣きそうだ。
「…鋼の?いつもの元気はどうした?」
そんな俺の様子に気がついているのかいないのか、大佐は変わらず俺の頬をむにむに抓んでは、笑っていた。



小さな山の天辺で、再び大きく息を吸い込む。
背筋を伸ばして瞼を閉じて、それから後ろを振り向き、瞳を開いた。
ほんの僅かに落胆の色を滲ませながら、
「…やっぱ、わかんね」
呟きは、風の音へとかき消される。

父親が居なくなって、母さんを失って。もう一度会いたくて、そしてまた失って。腕を失くして、足を失くして、弟さえも失いかけて、それでもこうして俺がいるのは、失ったものを取り戻したいからだ。でも、それだけが理由じゃない。
失くしてばかりじゃなかったからだ。得たものがここに確かにあるからだ。
足が震えて膝をついてしまいそうなくらいに弱い自分が、倒れかけても、くじけそうでも、虚勢を、たとえ虚勢でも、こうして胸を張って立っていられるのは、ここに幸せがあるからだ。
運命は時に過酷で残酷で、嘲るように大事なものを俺から奪っていったけど、同じように運命は、俺にアンタを連れてきた。アンタに会えたそれだけが、俺にとって容赦ないほどの幸せだった。
大佐。アンタがいればそれだけで、俺の中でベルが鳴る。
幸せだ、ってベルが鳴るんだ。
なのに、アンタのベルは錆び付いて、もう鳴らないのだと、そう言った。
「…それはダメだろー…」
それはダメだろ、まずいだろ。
俺のことを幸せにしているアンタのベルが鳴らないなんて、そんなのダメだ。不公平だろ。だってそんなの、なんて、悲しい。
こんもりと盛り上った小山から、ひょいと飛び降り、再びゆっくり目を閉じた。
同じ高さで前を見渡し、ここから真っ直ぐ見つめたのなら、これからアンタが生きていく、その道筋が見えるかも知れないと、俺はそんな願いを込めて。
視点を合わせて、ここから後ろを振り向いたなら、今までアンタが歩んできた、その過去が見えるかもしれないと、俺はそんな望みを抱いた。
努力と根性、いくら背を伸ばしたって、アンタと同じにでっかくなっても、同じ高さで見渡す世界の、映る景色が違うなら。
俺がいない間にアンタが今まで生きてきた、俺の知らない過ぎた時間を巻き戻すことなど、決してできはしないから。
俺にはアンタがわからない。きっとどれほど時間をかけて臨もうと。
確かにそこにあるはずの胸の奥にあるベルが、錆び付くほどの孤独も闇も、俺には一生わからない。
アンタを外から見つめるだけの、今のままではわからない。
アンタの胸の奥にある、一番深いところに沈んだベルを、引き上げ磨いて再び音を鳴らすには、アンタの内に入り込まなきゃダメなんだ。
易々と入り込ませはしないだろう。アンタはとても用心深くて、多分、臆病な人だと思うから。
でも俺は。それでも、俺は。

「なあ、アル…」
なぁにー?と上からのんびりとしたアルの声が聞こえる。
「兄ちゃん、ちょっくらひとっ走り、当たって砕けてくるわ」
うん?うん、行ってらっしゃい。気をつけて。
弟の声を背に、司令部めがけて走り出す。
当たって砕けて構わない。当たって当たって、何度砕けて粉々になったって。
――それでも、俺は。
あの人のベルを鳴らしたい。
そして、俺はあの人の、一番深いところに降りていきたい、と。


**


「俺は大佐になら身体を許してもいいと思えるほどに腹を括って好きなんだけど、大佐は俺に色々とする気ある?」
たまたま書類を積み上げていたブレダ少尉は、書類を辺りにぶちまけた。
たまたま紅茶を飲んでいたハボック少尉は、鼻から茶を噴出した。
男らしくも堂々と問題発言をぶちかましたかのように見えた少年の、唇が小刻みに震えている。
書類にペンを走らせていた大佐はその手を止めて、少年に視線をあわせてガタリと大きく音を鳴らすと、無言で椅子から立ち上がる。
ビクリと身体を竦ませた少年は、その場に踏み止まるべく固く結んだ拳に力を込めた。
そして大佐は、少年の閉じた掌をその腕ごと強く引き寄せて、震えながらも引き結ばれた少年の唇に、噛み付くように接吻けた。




ああ、俺はこの人の一番深いところに降りていきたい――。







さあ、鳴らせ。秘めた内なる鐘の音を。(ロイエド)

モドル