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夏の終わり、東京の空。
エドワードがいなくなった。 センセイさまへ。などというふざけたメモを一枚残して、はじめてここへ来たときと、同じくらいの唐突さでいなくなった。 最初はいつもの悪ふざけだろうと思っていた。単に私の反応をみたいがための、くだらない小芝居だろうと。 一週間がたち、もうここへは来ないのではないだろうかという不安が募り始めた。 二週間がたった頃には、そのあまりの身勝手さに、不安よりも怒りが込み上げるようになっていった。 それから更に三日がたって、その日はちょうど夏休み最後の登校日だった。 登校日にも姿を見せないエドワードに業を煮やして、教室、廊下、職員室をウロウロ徘徊していると、エドワードの担任で、新婚旅行帰りのヒューズから声を掛けられた。 「なんだ、お前。知らなかったのか?」 ハワイ焼けした顔で、思いっきり驚かれた。 「てっきり、知ってるもんだと思ってた」 「なにをだ」 「エドワード、あの子な。夏休み前に学校辞めてるんだよ」 「…は?」 「イスタンブールに行くんだそうだ。なんでも、なしのつぶてだったあの子の父親が、今はイスタンブールにいるとかで、十年ぶりに一緒に暮らさないかと連絡を寄越してきたんだと。もう随分前から決まっていたことなんだが…。お前、本当に知らなかったのか?」 ヒューズが神妙な顔つきで、窺うようにこちらを見ている。 気がついていたのだろうか。狭い町のことだ。ヒューズに限らず、もうとっくに気づかれていたのかも知れない。 「イスタンブールって、トルコか。…ああ、だからか」 ようやく合点がいった。 すべてはそれ在りきの行動だったのだ。 なにが、イスタンブールって何県?だ。なにが、裏技を持ってるだ。初めからわかっていたんじゃないか。 なにもかもを承知の上で、あえてそれを言ったのか。 エドワードの発言の突拍子のなさはなにもその時に始まったことではなかったので、あの時はいつもどおり脳と口が直結した、何の意味もなさない、単なる思いつきでの発言だとばかり思っていたのだ。 「…ロイ?」 「あ!?」 「いや。…いや、お前さ。大丈夫か…?」 「ああ…。大丈夫に決まっているだろう」 またな、ヒューズ。二学期の始業式で。ああ、嫁さんにヨロシクな。 挨拶もそこそこにヒューズに背を向け、そのままずかずかと廊下を歩いて、教室に向かった。 誰もいない放課後の教室で、窓際にあるエドワードの席に座りこんだ。 エドワードは教室の片隅、この席からいつも一人でぼんやり外を眺めていた。 あの子に会ったなら、その真意を問い質してやろうと仕舞っておいた、例の置き手紙をズボンのポケットから取り出した。 センセイさまへ。 先生、お元気ですか。このあいだ会ったときには元気だったけど、今日は元気ですか。 俺がいなくなって、先生が今頃泣いちゃってるんじゃないかと、それだけが心配です。俺がいないと、先生ダメみたいだし。 それとも、冗談かなんかだと思ってる?でも、冗談じゃなくてね。俺はもういません。 先生と一緒にご飯を作って食べたことだとか、一組しかない布団の毛布を、先生と二人で取り合ったことだとか、缶ビールの空き缶をなぜか毎回潰さないと気がすまない先生のヘンな癖だとか、そういういろんなことを、この紙100枚くらいにたくさん書こうと思ってて、その一個一個を全部思い出してたら、なにも書けなくなりました。 全部があまりに楽しくて、全部がとても幸せだったから、今みたいなさみしいときに、書いてはいけないような気になりました。 先生、はじめて話をしたときのことを覚えていますか?教室で俺が空を見ていたときに、先生が俺に話しかけたときのこと。 あの時の空は霞がかって、白く雲が棚引いていた。 今日の空はあの時と同じによく晴れてはいるけれど、雲ひとつない快晴で、太陽がぎらぎら輝いていて、あの春の空とはやっぱり違っています。 今は夏で、もうすぐ夏も終わって、じきに秋になるからでしょう。 俺は夏が好きではありませんでした。夏だけじゃなく、春も秋も冬も、ずっと好きではありませんでした。 でもきっと、あの日はじめて先生と話をした、あの春の日から今日の夏の間だけは、ずっとずっと忘れずに、愛していくのだと思います。 先生がそれを忘れても、先生が俺を忘れても、俺はずっと忘れずに、覚えていくのだと思います。 先生、いろんな全部にありがとう。 本当に本当に、ありがとう。 追伸 甘くてドロってしてるのは、トルココーヒーじゃなくって、ベトナムコーヒーだってさ。 やっぱ先生って、案外なんにも知らないよね。 エドワード
散々読みつくした手紙の文面を、飽きるまで読み返した。 幾度も幾度も読み返し、実際、飽きたと手紙を丸めて、再びポケットにむりやり詰め込む。 エドワードと同じように、そのまましばらく外を見ていた。 どのくらいの時間がたったのだろうか。 慣れないつるりとした感触に、無意識に髪を掻き乱していたことに気がついた。 つるりとしたのは、自分の髪の手触りだった。 なんで髪がつるりとするんだ。自分の髪がつるりとするなんてぞっとしない。男の髪だぞ。それなのに、あのラックスのせいで。 それ以外は絶対いやだって、あの子がそういうから、まとめてポンプで買ってきたのに。 押入れの中にだって、わざわざ新宿まで買いに行かされた、ピングーの氷かきが、箱に入れられ出番を待って、今は静かに納まっている。 どうするんだ。ラックスはまだ沢山残っているのに。 どうなるんだ。週末ごとの楽しみだった、眠ってしまったあの子の小さな頭を引き寄せて、髪が指先からすり抜けていく感触を なにより一番愛していたのに。 窓の外には白い入道雲が浮かんでいて、空の青さを際立たせている。 ぽかりと浮かんで流れていく、あの入道雲は水の粒でできている。 ――先生が俺を忘れても、俺はずっと忘れずに、覚えていくのだと思います。 忘れるわけがないだろう。 お前、どれほど私を引っかきまわしていったと思っているんだ。 窓の外には久しく見たこともないほどに鮮やかな青空が広がっている。きっと今日の夕暮れには、燃えるような茜色へと彩は移ろうだろう。 夏が終わる。 いつかミンミンと鳴いていたはずのセミの音が、シクシクとその羽音を変えて、夏の終わりを告げている。 席を立ち、窓を開ければ、夏の名残の湿った空気が耳を掠めて、外に何が見えるのかと尋ねた私に、歌うようにソラ、と答えたエドワードの声が聞こえた気がした。 いつも空を眺めていたあの子は今、なにを思い、なにを見つめているのだろう。 イスタンブールに広がる空は、東京の空より青いだろうか。 |