飛んで、イスタンブール



暑い、暑いよ。動きたくない。と繰り返し、さらには、今すぐかき氷を食べないと死んでしまう。とエドワードが喚き出したのは、夏休みも中盤に差し掛かった夏の盛りのことだった。
あまりに煩いので、近くのコンビニでカキ氷を買ってこようかと財布を掴めば、動きたくないはずのエドワードは、俺も行く。と、もそもそ畳の上を玄関口まで這い出てきた。
「動きたくないんじゃないのか」
「だって、アンタ一人で行かせたら、絶対ヘンなの買ってくるだろ」
「コンビニにある普通のカキ氷を買ってくるに決まってるだろ。何がいいんだ?」
「どうせなら、可愛いのがいいよね」
「…可愛いカキ氷って、どんなだ。具体的に説明してくれ」
「ええとね。ピングーがいいな。でも、プーさんも捨てがたい」
あー、キティちゃんでもいいよねえ。
打ち上げられた魚みたいな先程までの瀕死っぷりはどこへ行ったものか、エドワードは意気揚々とスニーカーの紐を結んでいる。
「何味のピングーだって?」
「…あのさ。ピングーに味なんてあるわけねえだろ。強いていえばペンギン味だろ。つか、大丈夫か?」
それより、何処行く?新宿?アキバ?ねえ、車のキー持った?
ここにきてようやく、会話が大きく食い違っているらしいことに気がついた。
「ちょっと待て。なんでカキ氷一つ買うのに、新宿や秋葉原まで行こうとするんだ」
「大きい電器屋さんがあるから。ここらへんじゃ売ってないだろ、氷かき」
「…氷かき?カキ氷じゃなくて?」
「うん。氷かき」
あ、やっぱり新宿にしようよ、先生。そんで帰りに伊勢丹で、イチゴとブルーハワイのシロップ買おう。
いそいそと下駄箱の上のトレイから車のキーを取り出すと、よし急げ、車へゴーだ!と、キーを放って寄越した。


「ブルーハワイってさ。何でブルーハワイっていうんだろうな?」
「さあな。どことなくハワイっぽいからじゃないのか」
と答えれば、先生って案外何にも知らないんだね。と失礼なことを言い、青い色のカキ氷をスプーンで掬った。
窓の外には、雲ひとつない青空が広がっている。
遠くで近くで、ミンミン、ジージーと羽音を奏でるセミの鳴き声が聞こえた。
ブルーハワーイ。憧れのーブルーハワーイ。
「ブルーハワイって、こんな歌だったっけ?」
「いや、それ掠ってもいないぞ。絶対『憧れのハワイ航路』が混じってる」
エドワードはよく歌を歌う。
だが、大抵は作詞作曲が自分という、極めてでたらめな歌が多い。
たまにまともな歌を歌っていることもあるが、どういうわけか、昔懐かしの歌謡曲が多かった。
「ねえ、先生。地名シリーズしよう」
「なんだ、それは」
「地名のついた歌のタイトルを挙げてくんだよ。答えられなくなったら、負け」
「なんで、そんな…」
「暇だから。じゃ、まずは俺からね。『ブルーライト・ヨコハマ』」
「…いきなり古いところからきたな。『知床旅情』」
「人のこと言えねえだろ。『六本木心中』」
東京ララバイ。上海ハニー。箱根八里の半次郎。哀愁のカサブランカ。雨の西麻布。
「アンタ、さっきから日本ばっか言ってねえ?」
「別に問題ないだろう」
「それはそうなんだけどさ…」
「じゃあ、アレだ。『飛んでイスタンブール』」
「あー…」
「知ってるだろう?」
「うん。…知ってんよ」
おいでイスタンブール。恨まないのがルール。

「…なあ、センセ。イスタンブールって知ってる?」
「ああ。行ったことはないがね」
「イスタンブールって何県?」
「何県というか、トルコの都市名だ」
「トルコアイスは伸びるってね」
「トルココーヒーは甘くてどろっとしているらしいぞ」
やべえな、センセー。たまに、物知り。
エドワードは相変わらず、カキ氷をシャリシャリとスプーンでかき混ぜている。
「…で?」
「ん?」
「それがどうかしたのか?」
「ううん、別に。伸びるアイスってどんなだろ。って思っただけ」
「そうか」
「うん。…ね、トルコにもカキ氷ってあるのかな?」
「どうだろうな?」
溶けたカキ氷が青い水になって、器の半分を満たしていた。
「センセー、こっちも食べる?」
「いや、遠慮しておく」
「そう?美味いのに」
「残してもいいんだぞ?」
「そういうんじゃないけど」
「エドワード」
「…なに?」
「舌、青くなってるぞ」
「マジで。つか、センセーの舌は赤いんだな」
「イチゴだったからな」
「なんか、エロい」
「ほうほう、それはそれは」
「ね、センセ」
「ん?」
「センセーの赤と、俺の青。…混ぜたら紫になるかな?」
「どうかな。試してみるか?」
「…うん」

お互いの舌を重ねて絡み合わせた。ビクリと震えたエドワードの舌先を、唇で食んで吸い上げる。
力の抜けたエドワードの身体を支えて、ゆっくりと畳の上に横たわらせた。
「せ、先生」
「ん…?」
「これって、布団とか敷いたほうがいい感じ…?」
「…そこの座布団じゃ、ダメか?」
「え?」
「悪いな。実は、あまり余裕がない」
「え、そうなの?あ…っ、センセ…」


その日、初めてエドワードを抱いた。
一晩十五万と噂された小さな身体は、終始、私の下で震えていた。
痛い、苦しい。痛いよ、先生。でも、嬉しい。嬉しい、先生。
白いその腕を必死に伸ばして首に縋りつき、何度も何度も繰り返し。
先生。ねえ、先生。俺、キモチいい?俺はちゃんと先生のこと、キモチよくさせてる?ねえ、先生。
せんせい。せんせい。せんせい。
気を失うように眠りにつくまで、繰り返し私を呼び続けた。


夜中、ふと目を覚ますと、路地の街灯の明かりが部屋の中に入り込み、今は布団で眠っている、エドワードの白い背中を、乱れ広がる金糸の髪を、淡く照らし出していた。
隣に横たわるエドワードの静かな呼吸と、虫の音だけが、あたりにそっと流れている。
剥き出しになった、柔らかく丸みを帯びた肩に、シーツを掛け直してやりながら、胸の奥からぎゅう、と絞り込まれるような、凄まじい衝動を感じて、指先が震えた。
胸から喉を伝って込み上げてくる、とてつもなく大きな、なにか。
今まで生きてきたその中で、一度も感じたことがないような、泣きたくなるほどの、切なさや愛しさ。
「エドワード」
僅かに空気を揺らす程度の微かな声で、眠る彼の名を呼んだ。
みっともなく声が震える。けれど、誰に聞かれるわけでもない。誰に聞かれたところで、かまわない。
私を呼び続けた、彼と同じ強さで、何度も何度も繰り返し。
胸を切り裂く痛みに似た、その愛しさと同じ想いで、繰り返し名を呼び続けた。


囁くように呼ぶ声が、あたりに響いて静かに染みこみ、部屋中を満たしていった、それは優しい真夏の夜の出来事。









モドル