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流れる雲は、氷の結晶。
初めてエドワードを受け持ったのは、去年の春、エドワードが高校二年のときだった。 窓際の席に座って、いつも外ばかりを見ている生徒を気に掛け始めたのは、一体なにがきっかけだっただろう。 エドワードは、いつもぼんやりと外を見ていた。 そんな彼に声をかけたのは、単なる偶然、或いは授業中にただの一度もこちらに意識を向けないその態度に業を煮やしてのものだったのか、いずれにしても、その時のことは今でもはっきりと覚えている。 いつも君はなにを見ている、窓の外に何が見える、と尋ねた私に、エドワードはドレミの音階で、ソラと答えた。 「ソラ?」 「そう、ソラ」 「なに…、ああ、空か?」 エドワードの視線を辿れば、ぼんやりと霞がかった青い空と、白く帯びなす雲が見えた。 「面白いかい?」 「うん、それなりに」 「そうか」 柔らかな風が、全開に開け放たれた窓からそよそよと吹き込んできて、そのまましばらく二人で黙って空を見ていた。 形を変えて、雲が流れる。 青空の合間を縫うように、悠々と雲が流れて視界の端から消えていく。 こんな風にゆっくりを空を見たのは、いつぶりのことだろう。 「氷の結晶」 「ん?」 「魚群探知機に感知されちゃった、いわしの大群みたいな、あの雲も」 「ああ」 「長い素麺の吹流しみたいな絹雲も、どれも全部、氷の結晶」 でも、雲なんだよね。あれ見て『氷の結晶が浮かんでる!』っていう奴いないよね。やっぱ、雲だよね。 独り言のように呟いて、エドワードは頬杖をつきながら、飽きることなく空を見続けている。 噂に違わず、随分と変わった子だと思い、噂と違って聞けば答える、なんだ、普通の子じゃないか、とも思った。 エドワードを受け持つ以前から、彼に関する噂はいろいろと耳にしていた。 まず、恐ろしく成績が良いらしいこと。特に理数系に関しては、担当教師も舌を巻くほどの知識と理解を示していると聞いていた。 そして、一人暮らしをしていること。親兄弟がないわけではないらしいのだが、エドワードは親元を離れ、学校から程近いアパートに一人で住んでいるらしい。 それについての噂がまた凄まじかった。 一人で暮らしているのは、虐待を受け続けて家にいられなくなったせいだとか、セレブなマダムのパトロンがついているらしいとか、いや、マダムではなく金持ち親父の愛人稼業で生計を立てているだとか、いずれにしても、一晩十五万が相場なんだとか。 挙句の果てに、成績がいいのは、実は化学教師に数学教師、さらには校長までをも咥えこみ、身体で言うことを聞かせているからだと聞かされた日には、もう笑うしかなかった。 一晩十五万は、いくらなんでも高すぎる。一体、どんな技を持っているんだ。そんな技もち相手では、お年を召した校長なんざ一溜まりもないだろう。それが本当なら、是非一度、私もお相手願いたいくらいだ。 いつだったか、エドワードにその話をしたら、端からヤる気満々じゃねえかよ、この淫行教師。と笑いながら罵られたが、言わせてもらえばそんな噂、信じるほうがどうかしている。 だが実際、その噂のせいもあってか、エドワードの周りに人がいるのを見たことがなかった。生徒も教師も噂するだけ、いつだって遠巻きに彼のことをコソコソと見ているだけ。 「センセーはさ、いつも何を見てんの?」 「…なんだって?」 窓から吹き込む風にそよいで、陽の光に煌めくエドワードの金糸の髪を目で追っていたら、そう尋ねられた。 「だからさ。センセーはいつも教壇の上から、何を見てんのかな? って」 「私か?」 「そう」 春先の風にけぶるようなエドワードの髪に目を奪われていた。 だから、不意をつかれた問いかけに対応できず、言葉の意味を取り違えてしまったのだ。 「私は」 「うん」 「君を、見ていたんだが…」 「俺?なにそれ。口説いてんの?」 「…は?」 なんでそうなるんだ。と口に出そうとしたその時に、 「へえ。ふーん。そうなんだ」 「いや…」 「でもまあ、いっか。センセーなら」 「え?」 綺麗に笑ったエドワードが、無邪気にそう言ったから。 その笑顔に、ほんの少しだけ見蕩れてしまって、否定の言葉を口にするタイミングを逃してしまった。 「いいよ。口説かれても。でも、一応先生と生徒だし? なので、まずはオトモダチからお願いします」 思いもよらぬ急展開に言葉を失くした私を前に、エドワードはニコニコと手を差し出して、そう言った。 人を拒絶するかのような雰囲気を纏わりつかせている割に、どこかで人との関わりを求めている、そんな厄介な心に踏み込んでしまったのは、確かに笑顔でいたはずのエドワードの姿があまりに寂しげに見えてしまったからだ。 どこか伺うような表情で上目がちに覗き込んできた、髪と同じ金の瞳に抗えなかった。 今思えば、非常に騙された感が否めないこの時こそが、今後における重要な分岐点であり、きっかけだったと思えるのだが、たとえ幾度時間を巻き戻そうと、私は多分繰り返し、いくつの選択肢から同じ答えを選ぶのだろう。 「そういや、俺。オトモダチとかって初めてじゃん」 「そうなのか?」 「うん。そうみたい。なんで、どうぞよろしくね、センセー」 「…ああ。よろしく…」 思わず手を握り返してしまった、一年前。 なんだかわけがわからぬうちに、私はエドワードとお友達になってしまった。 茫洋と広がる空に青みがかった雲が棚引き、暖かな風が窓辺に佇む二人の髪を揺らしていった、放課後の教室、ある春先の出来事。 |