身体を繋げることなど簡単だ。
数十センチの肉塊をもって身の内に潜り込めば、君はすぐにも夢中になってそれが愛だと信じるだろう。
だがね、鋼の。
それでは私が、たまらんよ――。


愛だとか、恋だとか。


「兄さん、大丈夫?」
遠くの方から、気遣わしげなアルの声が聞こえる。
「…ん」
返事をするのも億劫で、それでも大事な弟にこれ以上の心配をかけまいと、必死になって頷いた。
「兄さん…」
「熱が上がり続けているな。これは、毎年のことなのかい?」
「はい。でも、今年は特に酷いみたいで…」
いっそ幻聴かと思えるほどに、遥か彼方遠くから、聞き覚えのある低く響く男の声。
「とりあえず、このまま冷やし続ければいいということだったな?」
「いつもなら、そうなんですけど…」
「うん?」
「切れ切れに意識を飛ばすことはあっても、気を失って倒れるなんてことなかったから…」
「ああ…。そうなのか」
アルの声が、不安そうに揺れている。
『大丈夫だから、そんなに心配するなよ』
そう声に出して伝えたつもりが、実際にはヒュウと小さく喉が鳴っただけだった。
熱に支配された身体は、思うようには動いてくれない。

セントラルの駅に降りた途端、あまりの暑さに身体中の血液が沸騰するんじゃないかと思った。
リゼンブールも相当だったが、照り返しの激しい路面、風を遮る背の高い建物に囲まれて、木陰を見つけることすら難しいセントラルの夏の暑さときたら、そりゃあもう容赦がなかった。
本来なら嫌いじゃないこの暑さも、機械鎧の手足をもつ今の俺にとっては、非常にゆゆしき問題だ。
照りつける太陽の下、夏の陽射しを燦燦と浴びた機械鎧が、そのままの温度で熱を帯び、体内に蓄積されてしまうのだ。
その高温ぶりたるや、今にも光を放ちながら、身体ごとドロドロに溶け落ちてしまうのではないかと思うほど。
生身の身体と、機械鎧の接続部分が熱を持ち、その熱が猛スピードで身体中を駆け巡る。
徐々に神経を侵されながら、脳が煮崩れるかと思うほどの高熱に支配され、毎年いずれも数日間は、切れ切れに記憶さえもが飛んでいく。
報告書を携えて、ズキズキする頭を抱え、ジンジン響く痛みを堪え、フラフラしながらどうにか辿りついた中央司令部の門の前。
ああ、これでやっと少しは涼めるに違いないと思ったまではよかったが、少しずつ身体に蓄積されていった熱が、よりにもよって大佐の執務室の扉を開いた瞬間に、沸点を超えていったのだ。
「こんちはー、報告書を持ってきまし―――…?」
「兄さん!?」
「…鋼の!」
慌てたアルの声と、ほんの僅かに焦りの滲んだ大佐の声が聞こえた。
ああ、やっベー。大佐の前で倒れるなんて、そんな無様な真似だけはしたくないのに。とかなんとか。
そんなことを思いながらも、俺はそのまま見事に落ちてしまったのだけれど。

「初めて知ったよ」
「え?」
「夏ごとに、鋼のが高熱で悩まされていたとはね…」
「あ…。ご、ごめんなさい!」
「うん?」
「大佐には、絶対に言うなって、兄さんが…。多分、大佐に余計な迷惑をかけたくないからだろうと…」
自信なさげなアルの声が、次第に小さくなっていく。
「ああ。鋼のらしいね。恐らく、私に弱みを握らせたくないとかいうのが理由だろう?」
「そんなことは…!」
「なんだ、図星かね?」
些か憮然とした様子の大佐の声が聞こえた。
「た、大佐ぁ…」
「はは。いや、冗談だ。そう焦るな。…別に怒っているわけではないよ」
――そういうんじゃ、ないんだけどな。
くらくら揺れる、頭の片隅で呟いた。
迷惑をかけたくないとか、弱みを握られたくないだとか。
ちょっとずつ当たってるけど、ちょっとずつ外れてる。
たかが熱くらいでと、呆れられたくなかっただけだ。
弱みを握られたくなかったわけではなくて、ただ弱みを見せたくなかっただけだ。
心配してもらえるのは嬉しいけれど、同じくらい悔しくもある。
――別に、わかってくれとは言わないけどな。
額が一瞬ヒヤリとして、濡らしたタオルを新しく取り替えられたことに気がついた。
『…ありがとう、アル』
口を動かし、そう伝えたつもりが、やはり声にはならなくて。
ヒュウと乾いた音が、喉を小さく震わせただけだった。
「…いいから、休んでいなさい」
――あ、大佐。
耳元で囁くように響いた声に、思わず安心してしまう自分がいるのも知っている。
心配をかけてしまうような弱い自分は悔しいけれど、それでもやっぱり嬉しくて。
発熱からくる痛みで、身体中のあちらこちらがギシギシと悲鳴をあげている。
頬を伝って流れて落ちる、汗を指で拭われた。
指先の冷たい感触で、それが大佐のものだと知った。
熱と同じ速度で駆け巡っている痛みすら、大佐の指が辿るたび、すっと引いていくようで。
『大佐』
ヒュッと、再び小さく喉が鳴る。
「ん?」
『ごめん。ありがと…』
「…ああ。君は何も気にしないで、ゆっくりおやすみ」
声にならない俺の声に、大佐は小さく頷いた。
大佐の指先が、額に張り付く俺の前髪を静かに払っている。
まるで愛撫のようなその優しい感覚に酔いながら、俺はそっと瞳を閉じた。



大佐が好きだ。
もうずっと前から、俺は大佐が好きだった。
最初に自分の気持ちに気がついたときには、いやいやまさか。と何度も否定を繰り返し、数え切れないくらいに嫌いなところを並び立て、それでも結局好きが勝って、そんなバカな…!と散々打ちのめされもしたのだけれど。
一年前のあのときも、今日と同じく報告書を渡すべく、俺は司令部を訪れていた。
そしたら大佐が、今日は天気がいいから、君も一緒に街にでてみるか?と、俺に声をかけてきて。
なんで俺がアンタの視察に付き合わなきゃならねえの、と至極当然な疑問をそのままぶつけてみれば、大佐は意に介する様子も見せず、じゃあ、デートをしよう。と非常にビックリなことを言いだした。
あれには本気で驚いた。えええええー、と仰け反るほどには驚いた。
そもそもデートってなんなんだ。デートってあれか。前に本で読んだことがある。若き男女があははうふふで、捕まえてごらんなさーいで、待てよぅーみたいな、波打ち際で愛を囁いたりするアレか。
アレをするのか。大佐と俺が。
『ほら、鋼の。綺麗な貝殻が落ちている』
『あ、本当だ』
『耳に当ててごらん?』
『うん』
『何か聞こえるかい?』
『うん…。波の音が聞こえる』
『それだけかい?よく耳をすましてごらん?』
『え?』
『私の声が聞こえるだろう?君に好きだと囁いている』
――って、うおおお、なんだそれ。
本の中では恋人同士が、波打ち際でいちゃいちゃしていた。
それに俺と大佐を当てはめながら、そのあまりな想像に俺は悶えた。

「ごっ…!」
「どうした?ご、ってなんだね。鋼の」
「わかんねえ…。ちょっと色々ビックリしすぎて口から『ご』が出た…」
「ああ、そう」
「あ、あのさ」
「ん?」
「デートって具体的になにすんの?やっぱ、あははうふふ。とかする?」
「…は?なんだね、それは」
「だからさ。俺と大佐で、貝を拾って、波打ち際を走ってみたりすんのか…な…って」
「ああ、うん。…そうか」
徐にくるりと俺に背を向けた、大佐の肩が揺れている。
なにやら、笑いを堪えている風だ。いや、全然堪え切れてない。背中がぶるぶると震えている。
「なあ…。俺、なんかおかしなこと言った…?」
「…いや?ただ、ここには海がないからね。波打ち際を走るのはまたの機会にしようか」
「あ、そっか。そうだよな」
海がないんじゃ、波打ち際は走れないよね。
納得しながら頷いていたら、大佐がとうとう噴出した。
「…大佐?」
「い、いや。なんでもないよ…、っくくくくくく…」
くつくつと笑い続けている大佐を見ながら、俺はようやく気がついた。
――あ、これはひょっとして。からかわれてんのか、俺。
舞い上がりかけた気持ちが、すっと芯から冷めていく。
そして、再びゆっくりと血が巡り始めて、全身の血液が顔に集結していくのがわかった。
多分、俺の顔はゆでダコみたいに真っ赤になっているんだろうと思うのだけど。
――なんだ、そっか。
熱く火照る顔とは裏腹に、頭の中が寒々と冷えていく。
薄っすらと涙さえ浮かべて笑い転げている男の様子を見つめながら、妙に冷静になった頭の隅で、言うべき言葉を探した。
大佐が俺をからかって遊ぶのなんて、いつものことだ。
そして、いつもの俺だったら、それに気づけば怒るだろう?
なんて言って、怒るんだっけ。なんて言えば、いいんだっけ。
「ざけんな、バカにしやがって…?」
「ははははははは、…は?」
語尾が上がって、問いかけ調になってしまった。
いつもみたいに、悪態ついてかわそうと思っていたのに。
大佐のアレはいつものことだ。別段、深い意味をもって言ったわけじゃないだろう。
軽口には軽口で返したいのに、何故か上手く返せない。
――だって、俺は。
大佐の笑い声がぴたりと止まった。
普段と違う俺の様子に、多分、大佐も気がついた。
「しょうがねえだろ、デートなんてしたことねえんだから。つーか、俺と大佐がデートって時点でおかしいし」
「鋼の?」
「だって男同士だし。百歩譲ってそれがありだとしても、俺と大佐じゃあるわけねえし」
「どうした?」
「デートって好き同士がするもんだし」
「おい、鋼の」
「大佐が俺のこと、好きなわけねえし。俺だって、大佐なんか…、好きじゃねえし」
自分でもそうとわかるくらいに虚ろな声で。一体、なに言ってんだ?俺。
いつもみたいに振舞おうとすればするほど、言葉が宙をカラ廻る。
へこんだ気持ちをどうにか押し込めて、踵を返して扉に向かった。
振り返った背中越し、大佐に向かい先を促す。
「…いいから、早く行こうぜ」
「え?」
「視察に行くんだろ?行くっていったのアンタだろ。最初からいつもみたいに命令すりゃいいんだよ。なのにアンタが…」
――よりにもよって、デートとか言いだしやがるから。
デートをするって、俺には波打ち際を走ってるイメージしかねえんだけど、例えそれが間違ったイメージ画像だったとしてもさ。
そこにある大前提は、好き同士。ってことなんじゃねえの?
「つーか、な…」
アンタは、俺のことが好きじゃないからそんなことが言えるんだ。
俺がアンタを好きだって、アンタは知らないからそんなことが言えるんだ。
「紛らわしいこと言ってんなよ、クソ大佐…!」
好き同士が、あははでうふふなんだと思っていたから、うっかり間違えそうになった。
大佐も俺のこと好きなんだって、勘違いをしそうになった。
おめでたい己の思考回路が、恥ずかしくて悔しくて、涙が零れそうになる。
「…鋼の」
「んだよ」
「デートしようか」
「…ッ!だから…ッ!!」
いい加減にしろよ、オッサン!と。
怒鳴りながら振り向いて、勢いついでに一発殴ってやろうと思ったら、思いのほか真剣な目をした大佐の視線に囚われた。
「あまりにわかりやすいものだからね。つい、かまいたくなるんだが」
「なにが…」
「やりすぎたようだ。…どうにも、加減がわからなくてね」
「だから、なんの話…」
「君の話」
「は?」
「君が私を好きだ、という話」
「な…っ!」
「気がつかないとでも思ったか?君が私を好きだろうことくらい、ずっと前からわかっていたさ」
さも当然のように言われた言葉はとてつもなくて。
んなわけねえだろ、なに言ってんだ。バーカバーカ。
と言ったつもりが、どういうわけだか声にはならずに、口がパクパクしただけだった。
「あれだな、まるで金魚だな」
「なに、がっ…!?」
「ん?君が。全身が真っ赤に染まって、口がパクパク」
ぱくぱくぱく。
大佐は面白そうにそう言いながら、右手をパクパクさせている。
「てめ、すぐに人をからかいやがって、そんなに面白いかよ…っ!」
「うん」
「うん、って…!!」
思いっきり真顔で肯定されて、いろんな意味で泣きたくなった。
俺が大佐を好きだって、知ってたって言ったじゃん。
なのに、なんでバカにすんの?なんでからかうの。
誤魔化そうとしてんのか。
別に好きになってくれなんて言ってない。迷惑をかけるつもりもない。
言うつもりだってなかった。ただ好きなだけ、それでよかった。だから、ずっと黙ってようと思ってた。
想うことすら許さないと、アンタは俺を拒絶するのか。
「鋼の?」
「…るさい」
「ああ、すまない。また、やりすぎた…」
「黙れ…」
「悪かった。つい、な?」
「黙れ、黙れ黙れ!もう、触んな!」
肩を掴もうとしていた大佐の腕を、右腕で思いっきり振り払った。
「…痛」
「え?あ、ごめん…!」
僅かに眉を顰めた大佐に驚いて、一度は払ったはずの腕を引き寄せた。
咄嗟に抱き込んでしまった腕を解くことも適わずに、俺はそのまま固まった。
妙な沈黙が降りてきて、そして大佐が小さく笑った。
「そういうところがね…」
「あ?」
「君の甘さで、優しさなんだろうな」
「は?」
「デートしようか、鋼の」
「…まだ言うか!」
「何度でも言うさ。君がうんと頷くまでは」
ふざけた口調で、それでも真剣な眼差しで、そんなことを言うから。
「君の反応が楽しくて、ついつい構い倒してしまう。想われているのがわかるから、それが嬉しくて」
「…嬉しい?」
「ああ、嬉しい。…想う人に想われるのが、とても嬉しい」
「え?」
「鋼の。デートしよう」
「なに…」
「公園通りに新しいカフェができてね。なんでもケーキが美味いと評判らしい。確か甘いものは好きだったよな?」
「あの、大佐…?」
「デートというのは、好き同士がするものなんだろう?だから、鋼の」
デートをしよう。私と君の、二人きりで。
穏やかな顔で微笑みながら、そう言った。



「…っつ!」
目が覚めて、ズキズキ痛む頭を押さえ、ゆっくり身体を反転させたら、全身に攣れるような痛みが走った。
身体中のどこもかしこも、バキバキに強張っている。
シンと静まり返った部屋の中、人の気配は感じられない。
アルも大佐もいない今なら、ちょっとくらいは呻いてみてもいいだろうか。
「ぐおおおお…!」
誰に遠慮をすることもなく、ちょっとどころか盛大な呻き声をあげながら、必死になって身体を起こした。
…トイレに行きたいのだ、ものすごく。
片手でソファの背凭れを掴んで立ち上がり、這うようにしながら廊下へ続く扉へ向った。
この部屋を出た直後には、己の異変を誰にも悟らせず、普通の顔で歩かなければならない。
人が聞けば、気負いすぎだと笑われるかもしれないが、軍内部にぶっちゃけ敵が多すぎるのだ。
どんな僅かな隙であろうと、弱みをみせればつけこまれる。
『それでなくても、君は目立つ。目立つ分だけ、敵を作ると思いたまえ』
軍の狗になると決めたその時に、俺にそう忠告したのは、「軍の内外、敵だらけ」との誉れも高い、ロイ・マスタング大佐その人だった。
「うおおおお!…よし」
扉を開ける直前に、保険のつもりで呻いておいた。
これでもう、普通の顔で廊下を歩ける。

立ちながら用を足すのが億劫だったので、個室を一つ占拠した。
「…っはあ」
このままずるずると壁を伝って落ちていってしまいそうな身体をどうにか支えつつ、溜息をひとつ吐く。
毎年のこととはいえ、正直辛い。思うように身体が動かず、自分がつきはぎだらけのロボットなのではと疑いそうになる。
なにが一番厄介かって、身体の不調につられるように心までもが弱くなろうとすることだ。
実際、一人きりになった先程からずっと俺は弱音を吐きまくっている。
「だっるー…」
いっそこのままトイレに居着いて、ここの住人になってしまいたい。気を張りながら再び部屋に戻ることを考えただけで、気が遠くなりそうだ。
往生際も悪く、あーとかうーだの唸っていたら、外に人の気配を感じた。
直に二つの声が聞こえてきて、俺は慌てて口を噤んだ。
「…さっき見かけた、あのちっこいのが例の?」
「そう、あれが噂の【鋼の錬金術師】殿さ」
――ちっこいって俺のことか?誰だかしらねえが、あとでブッ飛ばす!…あとでな。
トイレの個室で自分の噂を耳にするというありがたくもない状況下で、俺はぼーっとしたまま聞くともなしにその会話を聞いていた。
「マスタング大佐が後見人だったよな?」
「ああ。なんでも噂じゃ、既にお手つきらしいって話だがな」
「は!?だってまだ子供だろう?しかもあれ男だろ?女に不自由しているわけでもないだろうに。…相変わらず見境ねえなあ」
「余程も具合がいいんだろうな。それに、だいぶ懐かれてるとも聞いた」
「へえ…。まあ、割と可愛い顔してたしな。あれに懐かれりゃ、そうそう悪い気もしないか」
「『優しさ』なのかも知れないぜ?かわいそうに、つってな」
「あ?」
「片手と片足が機械鎧なんだろう?」
「ああ、そうだった。流石はマスタング大佐殿だな。同情で男を犯るのか。…裸に引ん剥いてそれだろう?俺だったら、確実に萎えるわ」
「だよなあ。前に一回見たことあんだけどよ、痛々しいっつーか、生々しいっつーか…」
キィと軋んだ扉の閉まる音とともに、声は小さく途絶えていった。
――またかよ。つーか、他にネタはないのかよ。
あまりのバカバカしさに、怒る気も失せる。
ロイ・マスタングの雌狗めーとか、さぞやアンアン可愛い声で啼くんだろうなーとか、ちこっとオジサン達にも挿れさせてくれやー、なんてなことを面と向って言われたことも、実は一度や二度ではない。
『悪意に満ちた中傷に、いちいち耳を傾ける必要はない。雑音だと思って聞き流せ』
俺にそう言って聞かせた、あれもやっぱり大佐なんだよな…。
今になって思えば、それがいかに含蓄のある言葉なのかがよくわかる。
たまにしか軍に顔を出さない俺にしたって、この始末。
日々をここで過ごす大佐は、今までどれほどの中傷を浴びせられてきたのだろう。
相手を傷つけるためだけに吐き出される言葉の数々が、いかにくだらないものであるのか頭ではわかっているのだけれど。
降り注ぐ言葉が帯なす棘と化し、気づかぬうちに心を掠めて、見えない小さな傷痕をいくつも無数に残し去る。
「なあ、アンタは平気なの…?」
ここには居ない大佐に向って、問いかけた。
雑音だと割り切るまでに、アンタはどれだけかかったの。
どんなに慣れたつもりでいても、それら全てを聞き流せるほど寛容な心は持ち合わせていない。
普段であれば気にも留めない些細な出来事にさえ、弱まった心は過剰なまでの反応を示す。
この時期に、セントラルに来たのは間違いだった。
「俺は、あんまり平気じゃねえや。…つか、痛てぇ」
ずぶずぶと再び意識が沈み始める。個室の扉に寄りかかり、咳き込みながら軽く喘いだ。
暗くなる視界とともに、次第に意識が遠くなる。
「――…痛いよ」
意識を手放す瞬間に、一人きりで呟いた。



混沌とする意識の中を彷徨いながら、錯綜する記憶の波に翻弄される。
大佐と手を繋いで、街を歩いている。
恥ずかしくて照れくさくて俯きがちになる俺の手をぎゅっと掴んで離さずに、大佐が当たり前のような顔をして俺の隣を歩いている。
ケーキが美味いと評判のカフェに立ち寄り、旅先で起きた他愛のない出来事を感じたままに一生懸命、大佐に話した。
大佐は終始ニコニコしながら、俺の話を聞いていた。
ふわふわ甘くて優しくて、夢のように幸せだった一年前のあの日の記憶。
――かわいそうにね。
『え?』
大佐がそう呟いて、それからまもなく視界がグラグラ揺れだした。
ゴゴゴゴゴと音を立てながら地鳴りが響き、それは次第に近づきながら、ドゴゴゴゴの大音量で押し寄せてくる。
地面が割れて、傷のような裂け目がいくつも現れ、パクリと口を開けている。
辺りの景色が一変し、俺の向かいに座ってた大佐が、地面に飲み込まれそうになるのが見えて、俺は慌てて腕を伸ばした。
『あ…』
伸ばしたはずの腕がない。差し延べた右腕の、肩から先が見当たらない。
引きちぎられた肉片が、足元でゴトリと音を立てる。
『兄さん!』
俺を呼ぶ、アルの声が聞こえた。
大佐だった人影は、いつしかアルへと姿を変えていて。
今まさにアルを飲み込まんとする大地の裂け目が、赤黒く変色していく。
俺は、あの形を知っていた。
あれは俺の胸に残された攣れた傷口、消えることなく刻み込まれた罪の刻印。
アルが裂け目に飲み込まれていく。
『アル…!』
慌てて駆け寄ろうとした瞬間、バランスを崩して地面に平伏し、もっていかれた足のことを思い出した。
『兄さんー!!』
助けを求める、アルの声。
『アル!』
それでも俺には右足がある。とり残された左の腕も。
歩けないなら這えばいい。どんなに進みは遅くとも、前へ進めば道は開ける。
三年前の、あの日の記憶。
――かわいそうに。
どこからともなく声が聞こえた。
――もがれた腕で何が救える?失くした足で何処を目指す?
深く抉れた大地の裂け目が、アルを飲み込んでいく。
記憶の波に浚われながら、押し寄せる感情の渦に巻き込まれた。
――かわいそうな無力な子供。かわいそうなバカな子供。
低く響く男の声。この声を知っている。
『――…大佐?』


「なんだ?」
「……あ?」
意識が浮上し覚醒する瞬間は、いつだって唐突だ。
夢と現実の区別がつかずに、ぼんやり辺りを見渡せば、そこは車の中だった。
珍しくもハンドルを握っている大佐の後頭部が目に入る。
その丸みを見つめながら、俺は詰めていた息をこっそりと吐き出した。
「気がついたようだな。気分は?」
「うん、まあまあ…。つーか、なにゆえ俺は車の中にいるのでしょう?」
「何故なら私がトイレで倒れた君を抱えて、車内にお連れしたからです。…覚えてないのか?」
「うん、ちっとも」
殊更明るい声でそう答えると、大佐は呆れたように肩を竦めた。
「なんだ、覚えてないのか。…あんなに大騒ぎしたというのにね」
「大騒ぎ?」
大佐がバックミラー越しに、俺の様子をチラリと伺う。
「発見された途端に泣き喚いたんだよ。『大佐、立てない歩けない。もうやだ、大佐抱っこしてー』とね?」
「…は?」
「ちなみに剥き出しだった君のチンチンは、私がきちんとしまっておいた」
「チ…!はあっ!?」
慌てて股間を手で隠した俺を見て、大佐が薄く笑いを浮べている。
「…と言ったら、信じるかね?」
「信じねーし、信じたくない…」
「それが賢明だ。鋼の」
「あ?」
「何かあったのか?」
幾分、大佐の声色が変わったのを感じながらも、俺は首を横に振る。
「別に、なにも。…そんなことより、なあ、アルは?」
「先に宿に帰らせた」
「そう…」
――心配をしていなければいいのだけれど。
窓の外を流れる風景を眺めながら、不安げに俺のことを見つめていたアルを思った。
――早く、アルのところに帰りたい。
アルに会えば、こんな弱気な心もきっと吹っ飛ぶ。そしたら余計なことなど考えないで、今日はこのまま眠ってしまおう。
変わらず身体は軋しむけど、だいぶ熱も下がってきている。頭痛も前ほど酷くはない。
一晩ぐっすり眠ってしまえば、明日の朝にはきっといつもの元気な俺に戻れるはずだ。それになんだか、今日は疲れた。
「もうしばらくの間、休んでいるといい。宿に着いたら起こしてあげよう」
シートに深く寄り掛かり軽く目を閉じていたら、優しげな大佐の声が聞こえた。
なんだかんだ言いつつも、結局、大佐は俺に優しい。
山と積まれた書類に目を通しつつ、俺の額に置かれたタオルをまめに何度も換えていた。
今もこうして俺を宿に送るべく、車を飛ばしてくれている。
それは、愛の成せる業?それとも…。
『かわいそうにね』
夢の中で聞いた大佐の声を思い出し、思わずぎくりと身体が強張る。
昼に聞いた話が頭の隅に残っていたから、あんな夢をみたのだろう。
あんな根も葉もない噂話で、心を惑わされるなんて。
根も葉もない――…?
「…はっ、くだらねえ」
「どうした?」
「いや、べっつにィ〜。それよか、アンタこそどうしたの」
「なにがだね?」
「なんか、やけに優しいじゃん?」
「失礼な。私はいつだって優しいだろう」
憮然とした口調でそう言いながらも、ミラー越しに俺を見つめる大佐の目が優しく微笑んでいる。
大佐が優しく微笑むたびに、じわりと心が熱くなる。胸が衝かれる想いがする。
この人が好きだ、と思った。
「なあ、大佐」
「ん?」
「俺、大佐が好きだよ…」
声が掠れて独白めいたその言葉は、紛れもなく俺の本心で。
「大佐が俺をどう思おうと、俺は大佐が好きだよ」
揺らぐことない、俺の真実だ。
いいじゃねえか。大佐のそれが、別に愛じゃなくたって。
別に、いいじゃねえか。例えそれが、たとえ同情なんだとしても。
だって俺は大佐が好きで。そして大佐は、俺に優しい。
「…なんだ、それは」
「え?…うわっ!?」
突然、急ブレーキを踏まれて、前に座る大佐の頭に思わずしがみ付く。
「行き先変更だ。…鋼の。危ないから手を離してくれないか、前が見えない」
「あ、悪ぃ。…って、は?」
「今日は家に泊まっていきなさい。たまにはいいだろう?」
「え?」
「鋼の。なにがあった?すべて話してもらおうか」
アクセルを踏み込まれ、後部座席に張り付きながら呆然としている俺をよそに、車は暮れかかったセントラルの街中を猛スピードで駆け抜けていく。



「…で?君はそんな馬鹿げた戯言に、心を痛めているというわけか?」
椅子に深く腰掛けて、時折脚を組み直し、黙って俺の話を聞いていた大佐は、冷ややかな口調で吐き捨てるようにそう言った。
古びた階段を上り、薄暗い廊下の突き当たりに大佐の部屋はあった。
促されるまま中へと入り、所在なさげに立ち尽くしていた俺に、大佐はソファに座るように命じると――あれは確かに命令だった――じっと俺を見据えたまま、無言の圧力をかけてきた。
そして結局、俺はその圧迫感に耐え切れず、洗いざらい全てをぶちまけるはめになり、今に至る。
「くだらない中傷に耳を貸すなと言っただろう。そんな言葉にいちいち傷ついてやる必要はない」
「わかってるけど。…でも、もしかしたらそうなのかな、とか思うじゃん」
「なに?」
「俺が大佐を好きだって知ってるから、だから優しくしてくれんのかな、とか思うじゃん…」
言いながら、あまりの女々しさに吐き気がした。それでも言うのを止められない。
「俺が『かわいそう』だから、同情してくれてんのかな、って…」
情けないほどに声がよわよわと力を失っていく。
夢の中で大佐が俺に言った言葉が、胸の中に痞えていた。
夢だというのはわかっている。自分の中にあった不安が形となって表われた、ただの妄想だということも。
それでも、声が。『かわいそうに』と囁いた、あの大佐の声が忘れられない。
「――かわいそう?誰が『かわいそう』だって…?」
「え?」
地を這うように低く響いた声が、僅かに怒気を孕んでいる。
「私がそれを君に言ったのか?そんなことを、いつ言った?」
「…大佐?」
口元に薄く微笑みを浮かべながら、目は冷たい光を放っていた。
「本気でそう思っているわけではないんだろう?それとも、否定をされたいがために、あえてそういう物言いをしているのかね」
「え?」
「いずれにしても一時的なものだよ、鋼の。熱のせいで君は正常な判断力を失っているにすぎない。君が本気でそれを疑うはずなどないんだ」
「なんで、そう言い切れんの…?」
やけに断定的な物言いが、俺の気持ちを逆撫でする。
「大佐、別に俺のこと好きじゃねえだろ?熱、関係ねえよ。俺はずっとそう思ってたよ…!」
そうなのだ。
どんなに自分を誤魔化したところで、誤魔化し通せるものでもない。
今回のことはただのきっかけに過ぎなかった。
俺は大佐が好きだ。そんなの今に始まったことじゃないので、改めて確認するまでもない。
でも、大佐のそれは違うだろう?好きだったら、もっとずっと。
「…そうか、わかった。君は私を怒らせたいのか。怒らせたいんだな?そうだろう…!」
いきなりの怒号にビクリと身体が竦んだ。
「なっ…、って…!」
「なんだ!」
「だって大佐、俺に触んねえじゃん!」
「あ!?」
引き攣るような声で叫んでいた。もう自分でもわけがわからない。大佐に怒鳴られたショックで頭の中がパニック状態だ。
「好きなら触りたいだろ、普通。でも俺、大佐に触られたことねえもんよ!」
「意味がわからん。触ってるだろう、ほら!ほら!!」
大佐は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がると、ホラホラ言いながら俺の腕をぐいぐい引っ張った。
思いきり顔を歪め、こんな風に怒りを顕にするのは珍しい。
「ホラじゃねえよ、引っ張んな!しかも、そういう意味じゃねえし!」
「どういう意味だ。わかるように説明したまえ!」
「チュウとかしねえじゃん!!」
「―――…は?」
勢いに任せて叫んだものの、己の発言に動揺しつつ俺は固まり、大佐は大佐で俺の腕を掴んだまま固まっている。
「だっ…てさ。好きならキスとかしたいと思うんじゃねえの?でも、大佐しないじゃん…」
それってつまりは、そういうことじゃないのか。
好きなら触りたいだろうと思うのだ。それが恋愛感情であるなら、尚更に。
手を繋げばドキドキするし、髪を撫でられればフワフワする。
もっと大佐に触ってほしいと俺は思うし、俺も大佐に触りたい。でも、大佐からはそんな気配を感じない。
それはつまり、恋愛対象として俺をとらえていないからではないのだろうか。
昼に聞いた会話を思い出す。
『機械鎧の身体じゃ、萎える』
それ以前の問題だ。俺は大佐にそういう目で見られたことすらない。
「なんだって、君はそう極論に走りたがるんだ…」
大佐はがくりと肩を落としながら、俺を見つめて岩のように重たい溜息を吐いた。


「なにを思って、君がその結論に行き着いたのかは知らないが」
いきなり抱え上げられて、ベッドの上に放り出された。
「それで君が納得するなら、いくらでもキスするさ」
のろのろとした動作で、大佐が上着を脱いでいく。
「キスした数だけ君を好きだという証明になるのなら、君が望むあらゆる場所に、いくらでも。キスだって、それ以上のことだって」
ギシリとベッドが軋む音がして、徐に抱き締められた。
「…簡単なんだ。身体を繋げることくらい」
大佐は俺の耳元でそう囁くと、息を継ぐ間も与えぬような激しい接吻で俺の唇を塞いだ。
ぬめった感触が歯列を割って、強引に咥内に押し入ってくるのを呆然と受け止めながら、見知ったはずの男の顔を凝視した。
「っは、あの…、大佐…?」
唇が開放された瞬間、男に呼びかけた。
好きな男に接吻をされているのだ、と頭の隅でわかっていても、どうにも思考が追いつかない。
目の前にいるのは確かに大佐なのに、いつもとあまりに様子が違う。
殺意にも似た昏い光を瞳の奥に宿し、濡れた視線で見つめられ、ざわりと肌に鳥肌がたつ。
「どうした?そんな顔をして。触ってほしかったんだろう?」
「あ…」
首筋に歯を立てられて、身体がびくりと強張った。
「お望みどおり、触ってあげるよ。いくらでも」
「う…あっ!」
いきなり性器を握りこまれて、喉から悲鳴に似た声が洩れた。
快感に結びつくはずのそれは、単に恐怖を呼び起こすものにしか過ぎず。
乱暴なまでの男の仕草に、喜びよりも恐れが勝った。



「ひ…うっ!」
自分でさえ触れることのない場所を、男の指が執拗までに弄んでいる。
身体中を撫で回されて、舐められ噛まれ、絡みつくような愛撫に翻弄され続けた。
口でイかされ、手でイかされ。
喘がされて啼かされ続け、喉がはりつきまともな声すら出せやしない。
「…いさ、も、や…」
「そろそろ、いいかな…」
散々弄ばれたその場所に、ひたりと熱の塊をあてがわれ、一気に血の気が引くのを感じた。
「大佐…?なに…?」
「今更なにを言う。この状況でやることなんて、一つきりだろう?」
「ヒッ…!」
先端をぐいと押し込まれ、声にならない悲鳴が喉をついてでた。

持ち上げられた足が小刻みに震えている。未知の感覚に身体中が竦んでいた。
「なにを怯える?これが君の望んだことだ。こうしなければ、君は私を疑い続けるのだろう?」
「たっ…さ、も、いい…」
みっともないくらいに声が掠れた。どうにも震えを抑えられない。
「ふざけてもらっては困る。君は私をなんだと思っているんだ?ここまできて止められると思うのか?最後までやらねば収まりがつかんよ。私もただの男だからね」
圧倒的な質感を持ったそれが、めりめりと身体の中を押し拡げてながら入り込んでくる。
「…っつ!い…っだ、やだ…!たっ、さ…、いうっ…!」
身体を裂かれるような痛みで、目の前が暗くなる。こんな痛みを他に知らない。
「やだ…よ、・・・っさ。こんな…やだ…」
縺れる舌を必死で動かし、やめてほしいと懇願した。
「…い。怖い…!大佐、怖い…!怖いよ…」
怖かった。黙々と身体を押し進めてくる目の前の男に、心の底から恐怖した。
泣きながら腕に縋り付いた俺を見て、大佐の動きがぴたりと止まる。
「ああ、またやりすぎたかな…」
「うっ…ひっく…」
いつものような穏やかな声で囁きながら、大佐は泣きじゃくる俺の頭をそっと撫でた。
「…鋼の」
「う?」
「身体を繋げることは容易いよ。このままこうして君の中に突き入れさえすれば、それでいい。それこそ愛の証明だと君がそう言うならね。でも、そういうことじゃないだろう…?」
優しい声が耳元で聞こえて、こめかみに触れるだけのキスを贈られた。
「鋼の。力を抜いて…」
「…うえっ?」
言われるがままに力を抜いたその瞬間、身の内に入り込んでいた熱い肉の塊が、ずるりと引き抜かれていった。
「…っく」
「ふっあ、大佐…?」
大佐が俯き、肩で息をつきながら乱れた呼吸を整えている。
そしてゆっくり顔を上げ、俺をみつめて微かに微笑んだ。
「…なあ、鋼の。君が私をどう思っているかは知らないが、恐らく君は勘違いをしている」
「え?」
「私は君が思うより、ずっと独占欲が強くて、利己的な男だよ」
「…わかんない」
言われた言葉は明瞭なのに、その意味を理解できずにいる俺を見て、大佐はゆっくり破顔した。
「例えば君を、散々甘やかした挙句に優しく愛撫を施して、そのまま抱いてしまえばね。君のような子供はすぐにも夢中になって、それが愛だと容易く信じてしまうだろう。身体の威力は絶大だからね。君の心を引き摺ることなど簡単なんだ」
優しい仕草で俺を抱きこみ、片手で髪を梳きながら、まるで独白のように淡々と大佐は語り続けた。
「君の『好き』は、大人の男に対するいわば憧れのようなものだろう。その想いに便乗して君を手に入れたとしても。いつか君がそれを錯覚だったと気づいたら?…それでは、私がたまらんよ」
「なに…?」
「身体だけではつまらない。心も身体も君のすべてを手に入れなければ、もう私の気がすまない」
大佐が静かに身体を起こし、無造作に髪をかきあげた。その仕草に目を奪われる。
「もっと私に焦がれればいい。私が君を想うのと同じ分だけ。もっと焦がれて欲しがればいい」
「大佐…」
「…愛しているよ、エドワード。だから早く私の元まで、堕ちておいで」
宥めるように唇が頬を掠めていく。
言葉を失った俺を見つめて、大佐は艶然と微笑んだ。
ずっと大佐が好きだった。
大佐を想うときにはいつも、フワフワ心が弾むような甘い想いで満ち溢れ、これ以上のものはないと、ずっとそう思っていた。
なのに今は、こんなにも胸が苦しい。
恋しさで心が震え、胸が焼き尽くされそうになっている。
こんな激情があることを、俺は今まで知らずにいた。
ふと気がつけば、適当な動作でシャツを羽織りながら、大佐が静かに部屋を出て行こうとしている。
「…大佐?どこいくの?」
不安に駆られて呼び止める。
「――――…浴室」
「なんで?」
「…それを聞くのか。流石は、鋼の」
「へ?」
「実は今、大変なことになっていてね。…正直、歩行さえも困難な状況にある」
「あ…?あー、そっか…」
ぎこちない大佐の動きからその理由に思い当たり、赤面しつつも、思わず笑いが込み上げてくる。
「…笑うな、バカモノ」
「あっは、…ご、ごめん」
パタリと扉が閉じられたのを見届け、俺はこっそり笑いを噛み締め、そしてそれから、ちょっぴり泣いた。


同情と愛情の区別すらつかずにいた俺は、大佐が言っていたように『好き』の意味もわからぬ子供なのかもしれない。
それでも俺は、大佐が好きで。昨日までとは違う切なさで、今は大佐を想っている。
溢れそうな想いを抱いて、シーツに包まり目を閉じた。
恋しいだとか、愛しいだとか。
そういう切ない感情を、これからゆっくり時間をかけて、俺は覚えていくんだろう。
好きだとか、愛してるとか。
激しい想いに身を焦がし、いくつの眠れぬ夜を過ごして、俺は覚えていくんだろう。
そして、俺は恋をする。

「鋼の?…眠ったのか」
部屋に戻った大佐が俺の顔を覗き込み、吐息だけで微笑んだ。
「…ゆっくり、おやすみ」

優しい声で囁いて俺の額に接吻けた、広い世界でたった一人のこの人に。
何度も何度も、恋をする。










モドル