A back alley



「また出やがったな!この泥棒ネコ!!オイ、こいつだ!誰か、誰か捕まえてくれ――ッ!」
パン屋の店主の怒号を背中で聞きながら、俺はいつものように路地裏を走り出す。
てめえみたいな肥えたオヤジに、捕まる俺だと思うなよ?
目深に被ったフードで顔を隠し、片腕に盗んだ1斤のパンを抱えて、俺は迷路のような裏道を走り抜け、行き止まりの壁をよじ登る。
「…はーい、そこまで」
「!?」
いきなり襟首を持ち上げられて、俺の脚が宙を舞う。
驚いて振り返ると、そこには眼鏡をかけた男が満面の笑みで俺を摘み上げていた。
「なにすんだよ!離せよ!」
「…コラコラ。ジタバタすんなよ。落っこちちまうぞ?」
「うっせー!離せってんだ、このこの…っ!って誰だよ!?アンタ!」
「…俺?俺は通りすがりの軍人です。」
「な…っ!軍人!?」

すっかり退廃しきったこの国で、王族・貴族の失墜とともに、国家の中枢を担っていた貴族院は既にその効力を失い、お飾りとして形のみを残す今、最も権力を持っているのは軍部に他ならない。
そして、国民から最も恐れられ、同じく忌み嫌われているのも、また軍部であり、そこに所属する軍人たちもまたしかりであった。

「お前なあ…。なんでよりによって、あのパン屋から盗んだんだよ?」
「それは…っ!」
それは、だって。一番鈍臭そうに思えたからだ。
あそこのパン屋のオヤジはいつだってエラソウに、客を見下す商売をしていたからだ。
「あそこの店主の娘婿・・・。元王族だって知ってたか?」
「・・・知らない」
そう言うと、眼鏡の軍人は、これ見よがしにはーっと一つ溜息を吐いた。
「まあ、普通は知らねえよなあ…。でもな。そんな訳で軍に要請が来たわけよ。『うちの店に泥棒が通ってきます。どうか捕まえてくださいな』ってな?」
「なんで・・・」
「なんで、軍?って思ったろ?俺も思った。…でもな、一応お飾りとはいえ、貴族院の意向には逆らえないんだ、俺達は」
「・・・弟が・・・」
「ん?」
「弟が待ってるんだよ!病気なんだよ!だから俺、ここで捕まるわけにはいかないんだ!」
「あのなあ・・・。どうせなら、もうちょっとマシな嘘吐け?んなありがちな理由で無罪放免になると思ったら大間違い・・・」
言いながら、男が俺の被ったフードを徐に外した。
「お前・・・。貴族か・・・?」
「・・・元、だけどね」

王族・貴族を見分ける簡単な方法が一つ、ある。
それは、髪と瞳の色を確かめることだ。
金髪に金の瞳。
隠しようのない、貴族の証。

「元貴族がなんだって、こんな・・・」
「アンタには関係ないだろ。それよか本当に見逃してくれよ。・・・弟が待ってるんだ」
「・・・食料を盗むということが、この国でどれだけの重罪に当たるのか、君は知らないのかな?」
「ロイ・・・!」
突然振りかかった違う男の声に顔をあげると、そこにはもう一人の軍服を着た男が立っていた。

――将校か・・・。
明らかにそれとわかる、その紋章。
軍部の中でも、とくに選りすぐりの軍人にのみ与えられる、特権階級である証。
「・・・知ってるよ」

産業と工業のみで栄えた国の、末路。
使い捨ての産業廃棄物で埋め尽くされた山。
工場廃水を垂れ流し、悪臭漂う油毒で汚染された海。
空は灰色の淀んだ雲で覆われ、日中でも太陽の光がさすことはない。
大地は枯れ、水は途絶え、人が生きていくための必要最小限である一切に見放されたこの国は。
貧富の差激しく、最下層に住む人々は、日々飢えと公害病の恐怖に晒され、怯えと飢餓にまみれて、それでも生きていかなければならない、この国の。
歪んだ統治国家が誇る、刑法。

「・・・確か死刑だったっけね?」
「ああ、そうだ。知っているなら話は早いな。例えどんな理由があるにせよ、それは絶対だ」
「なあ、ロイ・・・」
「ヒューズ。元貴族が最下層にまで陥ちた経路を想像して、勝手に情にほだされるな。・・・没落するにはそれなりの理由があるんだよ。・・・贅の限りを尽くして、この国をここまで貶めたのは、他でもない貴族の皆様方なのだから」
吐き捨てるようにそう言った、男の黒い双眸に、冷たく燃える焔を見た。
――軍部、特権階級。
その場所に昇り詰めるまで、この男が払った犠牲の数々が、瞳の奥でユラリユラリと焔となって燃えている。
焔を宿した男の手が、ついと近づき、髪を引かれて無理矢理顔を上げさせられる。
「・・・金の瞳。金の髪。贅沢品の極みだな・・・」
「――ッ!触るなッ!」
背中にぞっとするような冷たいものが走り抜け、俺はその手を払いのけた。
払ったはずの掌に、腕を思いきり掴まれて、思わず悲鳴を上げそうになる。
「――機械鎧?」
そう呟いた男の目が、物言いたげに見つめている。

「今時、珍しくもないだろ?こんな腕・・・」
機械鎧。
生身の腕を失って、新しく手に入れた俺の腕。
巷に溢れた機械鎧は、今ではパン1斤よりも安く手に入る。
「ふ・・・ん」
男は目を眇めると、何の前触れもなく俺の服を引き裂いた。
「…っな!なにしてんだ、この変態ッ!」
「ほう、足もか…。お前、生身の手足はどうした?」
「―――ッ!」
機械鎧に彫り込まれた刻印を、男が指でなぞっている。
その刻印は・・・。
「・・・アンタ、わかって聞いてるだろ?」
「さあ、どうだかな。少なくともこの刻印のもつ意味は知っている」
手足の機械鎧に彫り込まれた、王家の紋章。
性奴隷として売り飛ばされたその時に、生身の手足を引き千切られた。
どこにも逃げ出したりできないようにと、手足をもがれて放置された。
王家が滅んだその時に、身動きすることすらままならなかった俺に与えられた、鋼の手足。
それには、性奴隷として生きていた証としての、紋章が彫り込まれていた。
それからずっと、俺の手足は血も通わず冷たいままだ。
不意に男が顔を上げた。
蔑んだ視線がくるとばかり思っていたそれは、思いのほか穏やかで、俺は不思議な気持ちで見つめ返した。
「…ああ、捕らえてくださいましたか!」
その時、肥えた身体を左右に揺らしながら、パン屋の店主ともう一人の男が姿を現した。
「――これはこれは。わざわざご足労をおかけしまして」
もう一人の見知らぬ男に、焔の男が頭を下げる。
「いいえ、こちらこそ。・・・まさか、マスタング大佐にお越し願えるとは思ってもおりませんでした」
顔中に薄く笑顔を貼りつけて、その男が礼を述べる。
マスタング大佐と呼ばれた焔の男が顔を上げ、ほんの僅かに頬を吊り上げた。
恐らくこれが、パン屋の娘婿だとかいう、元王族の男なのだろう。
「さて・・・。それではその盗人をこちらに引き渡していただきましょうか?」
「…それは、出来かねますな」
「それはまたどういうわけです?始めからそういうお話だったはずですが」
「ヒューズ」
「…はっ!」
先程まで親しげに名前を呼び合っていた二人は実のところ上下関係にあったらしく、ヒューズと呼ばれた眼鏡の男が姿勢を正した。
「今回の任務内容について、こちらのお二方にご説明を差し上げてくれ」
「はい。…この度、我々に課せられた任務は、セルディア通り1103のベーカリーショップ『オリンピア』に盗みに入る賊を一人捕らえることです」
「ええ、勿論存じておりますとも。なんせその指令を下すようにお願いしたのは、他でもない私なのですから…!」
顔に貼りついた笑顔もそのままに、それでも視線は鋭く、元王族が静かに吼える。
それを物ともせずに、マスタング大佐は引き続きヒューズに問いかけた。
「では、ヒューズ。先程、こちらの店主どのはコレをなんと呼んでいた?」
コレ、と指差された俺は、思わずビクリと身体を竦ませてしまう。
「・・・泥棒ネコ、と」
「そう。ネコ、だ。私も確かにそう聞いた」
「それが一体なんだと言うんだ!」
店主が叫ぶ。
「我々は賊を一人、捕らえにきました。しかし、捕らえることができたのはネコの仔一匹。したがってコレを捕らえたことは単なるオプションでしかありません。本来の賊逮捕とは無関係だ」
「…なにをわけのわからんことを!そんなものは詭弁に過ぎない!」
「詭弁もなにも。ネコですよ?幾らなんでも、ネコは法では裁けない」
なあ?と問いかけるマスタング大佐に、ヒューズが大きく相槌を打つ。
「一体コレの、どこがネコだというんだ!?」
またもやコレと指差され、俺は再び身を竦めた。
「ネコですよ。そうだろ?お前」
そう言って、マスタング大佐が俺に振り向いた。
「…ニャー」
俺はしぶしぶ、そう頷いた。



チリン・・・。
涼しげな音が、静かに響く。
俺は路地裏を通り抜け、閑静な住宅街に向けて歩いていた。

その後、俺は手足の機械鎧を全て挿げ替えられて、昔の名残は身体のどこにも見当たらない。
弟のアルは、軍直属の病院でありったけの処置を施され、今ではすっかり快方へと向かっている。
裏庭に面した潜戸に身体を滑り込ませて、窓辺に近づく。
チリンチリン・・・。
首につけられた鈴が揺れ、微かな音を立てた。
「・・・おかえり」
「――・・・。」
読みかけの本から顔を上げて、そう声を掛けてきたのは、
あの路地裏で出会った一人の男。
軍部・特別階級『大佐』の肩書きをもつ、ロイ・マスタング。
あれから俺は、飢えや寒さに耐え忍ぶ日々から解放され、
今ではこの男の『飼い猫』としての日々を過ごしている。
「今日は、どこまで行ってきたんだ?」
「――・・・。」
「まあ、いい。・・・そうだ。君に贈り物があるんだよ」
ゴソゴソと、男が箱から何かを取り出した。
「君の新しい首輪をね、特別に作らせたんだ。・・・ああ、いいね。やはり君には赤が良く似合うよ」
そう言いながら、ルビーで作られたそれを俺の首へと巻きつける。
「気に入ってもらえたかな?鋼の」
俺の名前を知ることもなく、機械鎧の手足を持つ俺のことを、
鋼と呼ぶその男は。
「・・・ニャー」
俺がそう応えると、それはそれは嬉しそうに笑った。