穴。
『お前のねえ、大事なパーツを盗んだよ?』
老婆が言う。
『大事なパーツ?』
『ああ、そうさ。大事な大事なパーツだよ』
なんだ、それは。
例えば何処だ?心臓か?
それにしては私は元気に生きている。
では何処だ?
…まさか、まさか。
人前では言えないような、そんなパーツじゃあるまいな…?
『では貰って行くからねえ。取り戻したかったら―・・ればいい』
――そんな、夢を見た。
そこでパチリと目が覚めた。
―さて出勤だ、面倒だ。
そう思ってベッドから起き上がり、胸の辺りがスカスカと妙に落ちつかないのに気がついた。
何の気なしに、手をやり驚いた。
心臓の真下辺りにぽっかりと、見覚えの無い空洞があった。
「穴だ。…穴?」
それは確かに穴としか言いようが無いほどに、見事に穴だった。
首を曲げて覗いて見れば、見えるはずのない背中の向こうの壁紙が見える。
「…参ったな」
スースーと風の通りが良過ぎて、落ちつかない。
変わりにタオルを巻いて詰めてみたりもしたのだが、それはそれで落ちつかず、結局私は、胸に穴を空けたまま着慣れた軍服に袖を通した。
「――…とまあ、そんな夢を見たんだな」
「へえ、そらまた随分とシュールな夢ですねえ」
朝から不機嫌そうな上官に、さりげなく探りを入れたら、思いも寄らない返事が返ってきた。
――なるほど、この人にもそういう情緒はあるんだな。
そう思ったら、なんだか急に笑い出したくなってきた。
夢見が悪くて機嫌が悪いだなんて、そんなまるで子供じゃないか。
「…なんだ?」
「いいえ、なんでもありません。…まあ、夢のことなんてあんまり気にしないほうがいいですよ?」
「別に、私は気になどしていない」
些か憮然とした表情で答える上官に、またもや笑いが込み上げる。
それを見ていた上官が、ますます眉間に皺を寄せ、ダカダカと足音荒く部屋を出て行こうとする。
「…ハボック!会議だ、遅れるなっ!」
「う、わっ・・・は、はいっ!」
慌てて後を追いかけて、そして上官の背中あたりを通り抜け、向こう側が見えることに気がついた。
「…えっ?」
思わず焦って、目を凝らす。
「どうした?」
「あ、いえ」
振り向いた上官は相変わらず憮然とした表情のまま、身体に纏う軍服もいつも通りで、やはり目の錯覚だったのかと、そう思う。
――大佐が見た夢に、過分に影響されているに違いない。
再び上官が背を向けて、やはり向こう側が覗けるくらいの小さな穴が、身体に空いていることに気づいてなお、自分の中にある常識はそれを決して認めない。
*
会議中、どうにもハボックの様子がオカシイ。
おちつかなげにチラチラと、視線が私の胸の辺りをさまよっている。
―オイオイ、一体なんだっていうんだ?
そんなに気にされるほど、私は巨乳であるつもりはない。
―どちらかといえば、貧乳の部類だろうな。
退屈な会議の最中、私は私を気にしている、ハボックが気になって仕方がなかった。
―穴。だよな、アレは…。
大佐の御供で出席した会議中、俺は地味な議論も耳に入らず、ただただ大佐の胸に小さく開いた、穴が気になって仕方なかった。
廊下を歩いている時は、確か直径3cmくらいのほんの小さな穴だったそれは、徐々に大きく育っていく。
会議の最中も、それはおかまいなしに拡がっていき、今では直径10cmといったところだろうか。
大佐の身体の向こう側、白くぼやけた壁が見える。
どう考えてもオカシイだろう。ありえない話だろう。
人の身体に穴が開いて、それに気がつかない周りもそうだが、なにより本人が全く気づいていない素振りなのは、どういうことだ。
―毒されているのか?俺は。
あの大佐の夢話に。とてもシュールな夢の内容に。
*
「ハボッ・・・」
「…大佐っ!」
長く要領を得ない会議を終えて、執務室へと続く廊下を歩きながら、私は会議中、どうにも落ちつかなかったハボックの真意を問いただそうとして、そして彼の妙に切羽詰った声に遮られた。
「な、なに?」
「俺は夢を見てますか?つーか、夢オチならそれはそれで、むしろ大歓迎なんですけど!」
「…は?」
「大佐〜…。増えてます。拡がってます。育ってます。最早、こぶし大サイズです〜・・・」
「…いや、なに言ってるんだ?わかるように話せ」
そうして、涙目になったハボックが私に語り聞かせたのは、それはまるで私がみた夢の続きのようだった。
「本当に、なんともないですか?」
「別に、なんともないな」
「そうですか…。やっぱり俺の錯覚でしょうか?大佐ご自身にも見えなくて、他の誰も気がついている様子もないし」
「錯覚かどうかは別として、だな…。割と影響受けやすいんだな、君は」
「そうなんっすかねえ…。なんか壊滅的に凹みますがね。…だって、錯覚だろうと思う今でも、ちゃんと穴は健在なわけですし」
そういって、ハボックが私の心臓の真下辺り―夢でみた同じ場所―を指で指し示した。
ハボックはその場所に、穴が空いているという。
当然私には見えなくて、ハボック以外の誰の目にも見えない穴が、ポッカリと空いていると、彼は言うのだ。
言われてみればなんとなく、胸の辺りがスカスカと風通しがいいような気になってきて、どうやら私も影響を受けやすいタイプなのだろうかと、そう思って一人こそりと苦笑した。
胸に穴を開けたまま―ハボック曰くの話しだが―、私はその日の勤務を終えようとしていた。
今日もとりわけ問題のない穏やかな一日だった。
久しぶりに定時に仕事も終えられそうだし、今日は、そうだな。
誰か誘って食事にでも出掛けようか…?
そう思って手帳を広げる。マリア、ジュリア、キャサリン・アケミに、澄子…。ローテーションではこの辺り。さあ、誰にしよう?
「うわ…わ、大佐・・・!」
「・・・ああ?」
ハボックが慌てた様子で駆けつけて来る。
一体なんだ?何事だ?
「また拡がってますって、穴!」
動揺した顔で、それでも小声で言う辺り、彼にも自分で言っていてオカシイ自覚はあるのだろう。
「・・・そうは言われてもな。私には見えないし、実際見えているのは君だけだろう?」
「いや、それはそうなんですけどね?!でもやっぱり気になるじゃないですか。そのうち大佐が、その穴に飲み込まれちまいそうで・・・」
「…やなこと言うなよ」
だってもう、大佐が分裂しそうな勢いなんです・・・。
いくらかしょげた声色で、ハボックはそう言った。
知らない間に、私の胸に空いた穴は、随分と大きくなったらしい。
「あのな、ハボック・・・」
そう声を掛けたとき、ドバンと結構な音を立て、執務室の扉が開いた。
「…間に合った!?俺!」
そう叫びつつ、凄まじい形相で飛び込んできた豆が一匹。
「おや、大将。久しぶ・・・」
「久しぶりだな、鋼の・・・」
それぞれに声を掛ける私とハボックを綺麗に無視して、その豆が胸倉掴む勢いでにじり寄ってくる。
「また随分と情熱的だが。一体どうした・・・」
「ああ――ッ!?こんなに拡がってるし!・・・危ねえなあ、もう!」
そう言うなり、胸元辺りに手を寄せて、ぐいぐいと何かをかき集めている。
「なんだなんだ?なにしてる?オイ、鋼の・・・」
「うるっさい!バカ!このバカ!どうすんだよ、こんなに穴拡げちゃって!」
―アナ?
「穴!穴っつったか?今!見えるのか?この穴、見えんだな!?大将!」
状況の把握できない私を置き去りに、目の前の二人は穴穴穴。と連呼している。
「少尉も煩い!今それどころじゃねえ…っ!」
怒鳴りながらも必死な様子で、ぐいぐいと何かをかき集めては寄せている。目に涙を浮かべながら、そんなに懸命に一体なにをしているのか、私はさっぱり理解できないまま、それでもされるがままになっていた。
「・・・凄えな、大将。それも錬金術なのか?」
「違う…。でも、あともうちょっと・・・」
ぐいぐいぐい。何かを押されている感じは、する。
でも、それが何かはわからない。
見えない何かを押し込まれている感じ。
とても未知の感覚なのに、それは嫌な感覚ではなかった。
―暇、だなあ…。
なんとなく目の前にある、少年の頭をぐりぐり撫でた。
「…何してんだよー?大佐。つーか、アンタ、緊張感なさすぎ!」
少年の周りに張り詰めていた緊張の糸が、一瞬ぼんやり解けたように、それでも必死な顔をして、幾分情けない声を出した少年が、泣き笑いのような中途半端な笑顔で文句を言ってくる。
「だってなあ、私には見えんのだよ、その穴とやらが」
ずっとハボックの思い込みだと思っていた穴の存在。
今では多分、本当のことなのだろうと思っていた。
そうでもなければ、この少年がこんなに必死になる理由がわからない。
恐らくこの少年は、私の胸にポカリと空いた、その穴を埋めようと必死になっているのだろうから。
「あとあと、ネジだけだからさ、大佐。もうちょっとで埋まるから」
待ってね、もうちょっと。
そう言って、泣きそうな笑顔を浮かべる少年が、とてもじゃないが、ウソを吐くとは思えないから。
「ネジ・・・。ネジネジ…。どうしよ、ネジが取れねえ――ッ!」
『はい?』
ハボックと声が重なる。見事なユニゾンぶりだ。
「あ、そうだ!少尉!」
「は、はい?!」
「俺の右ポケットにネジが入ってるから、それ取ってくんない?」
手が離せないから、ネジとって。そんで俺の口に咥えさせて―ッ!
少年の叫びに似た願いに、ハボックが凄まじい勢いでポケットを探り出した。
「…コレか!?」
「そう、ソレ!」
コレ!ソレ!と勢いのいい受け答えが続く中、やはり私だけが蚊帳の外で。
コレか?とハボックが摘んでいるらしいネジとやらを、少年が口に咥えこんでも、その姿はどうしても私には見えなかった。
「あのね、大佐」
「んー?」
「ちょっとだけ痛いかもしれないけど、我慢してね?」
「・・・ああ」
全く私は子供かよ。
本物の子供に我慢しろといわれたからには、例えどんなに痛くとも、根性入れて我慢して見せるとも。
少年の唇が、そっと胸に降りてくる。
―これではまるで、接吻をされているかのようではないか。
暢気にそんなことを考えていたから、まるきり油断していた。
「…痛ッ!」
少年の接吻は、思った以上の痛みでもって私の胸を貫いたのだ。
「…で?結局、なんだったんだ?」
胸に空いた大きな穴が、すっかり埋まってしまったと、そう言って喜び合う二人を後目に、相変わらず私だけが蚊帳の外にいる。
なんだか微妙に面白くない気持ちを抱えて、私は些か不機嫌にそう尋ねた。
「そうだよなあ、俺も知りたい。なんだったんだ?」
そう言って同調するハボックと、私の顔を見比べながら、少年がいきなりうろたえ出した。
「――――教えない」
『…はい?』
そうして、またもやユニゾった私達を後にして、少年はさっさと部屋を出ていこうとする。
「え?大将。もう帰っちまうの?」
「・・・アルを置いてきちゃったから、ちょっとだけ宿に戻る」
そう言うと、音がするかと思われるほどに、勢いよく振り向いた。
「今回はッ!・・・いつもより、長くここにいるから…」
尻つぼみに小さくなる声に反比例するように、顔から首筋までを真っ赤に染めて。
「だから、大佐。・・・また、後でね」
そう言って、来た時同様、凄まじい勢いで部屋を飛び出した。
ぽかんと口を開けて見送るハボックを横目で見ながら、私は手にしていた手帳をパタリと閉じた。
―他の誰を誘うより、あの子がここにいるのなら…。
「…あ」
そして、ようやく思い出す。
あの夢の中で、老婆が言った最後の言葉。
『取り戻したかったら、寂しさを、愛で埋めてしまえばいい――』
老婆が盗んだパーツとは、多分私に見えない心のネジで。
それを持っているものは、世界中でただ一人、
あの少年だけなのだということを――――。